1 李勣

呉の「朋党の禍」について

呉では孫権の太子孫登の死後、次の太子孫和と魯王孫覇で大規模な内訌がありました。これによって呉は著しく衰退したと思いますが、皆さんはどう思われますか?
(N2701/FOMA)
8 削除済
9 朱家
改めて、先入観を持たずに記述を読むと、発端は皇后となるべき孫和の母を、魯班が弾いた事でしょうが、吾粲は「嫡子と庶子を区別し、楊竺を追い出すべき」と言っていて、前半は問題ないけど、後半は記述にある最初の個人攻撃で、才能云々ではないものの、カン沢の後任としては適任ではないのかなと…

陸遜は、孫和、孫覇も宮中の事もよく知らない訳で、吾粲の手紙をもとに上表するという、客観的、もしくは陸遜個人の意見なのか疑わしく、思慮が足りない感じがします。こちらは、ずっと外地にいるから、顧雍の後任としては明らかに…ただし丞相ですから、吾粲が先に、陸遜への諮問を強く訴えていれば、正規ルートだし、問題なかったかもしれない。
吾粲、顧譚、陸遜は仲良しだろうし、以前から、陸遜は楊竺、顧譚は全寄、全緒らと確執があるし、まあ、陸遜らは儒教概念(徳行に欠ける)からの蔑視だろうけど、とりあえずは、才能重視で登用してますからね。

発端にしても、魯班一人の個人的感情なのか疑問だし、孫登育ての母を皇后にしてれば、魯班の影響力は弱かったと思うし、孫権の責任には違いないが、魯王にした事は、大した事ではない気がしています。
(PC)
10 諏訪
孫和の母親の王夫人は、重んぜられるようになると、孫権から寵愛を受けた女性たちを都から追い出しています。
一方、全公主(孫魯班)の母親の歩夫人は、しばしば後宮の他の女性たちの後ろ楯になったといいます。
王夫人と全公主の対立は、個人的感情だけではなく、後宮全体を巻き込んだ対立の可能性があります。

孫登の母親がわりになった徐夫人が皇后に立てられなかったのも、嫉妬深いという理由からでした。
本来ならば、太子の母親が皇后に立てられるべきなのでしょうが、皇后には後宮のまとめ役という役割もあり、徐夫人や王夫人はこの点にそぐわないために、皇后に立てられなかったのではないでしょうか。
(W51S/au)
11 朱家
>>10
私も同じように考えますが、徐夫人は太子指名時、実質的にはすでに後宮を出されており、太子や群臣が推しても無理な話ですが、孫登は心情が強いだろうけど「国家として(育ての)母を皇后にすべき」は、結果的に正しいでしょうね。

徐、歩、袁、王夫人は、存命中に誰も皇后となっておらず、久しぶりに皇后となった孫亮の母は暗殺される始末(苦笑)
孫権の皇后指名に、異を唱えるだけでなく、武力行使を断行する後宮となった原因は孫権であって、政略結婚の多い呉において、親戚が多くいる後宮で、上下の規律が乱れてる。

優柔不断というより、孫権は気いつかいなのかなと…孫策の後を継ぎ、皇帝となるまでは、それが優れた調整力なのでしょうが。
(PC)