1 鈴木♂

マニュアル化されたSM

私が大学生の頃まで('80年代初頭)SMコレクターというSM雑誌がありまして、
この雑誌は美濃村晃氏と濡木痴夢男氏はおろか、松井籟子さんまでが
参加されていたという奇譚クラブから裏窓へと続いた路線の最後の雑誌でした。
この雑誌は今でもマニアの間では評価が高く、当時新刊で六百円位の雑誌
でしたが今でも千円〜三千円位で取引されております。

この雑誌の中で美濃村氏は美濃村晃名義で小説を書き、喜多玲子や竹中英二郎
名義でイラストを書き、さらには縄師となってグラビアを飾るモデルさんを
緊縛するという奇譚クラブや裏窓と同じ八面六臂の活躍をされております。

私は今でもこの雑誌を数冊持っておりますが、現在改めてこの雑誌の
グラビアを見てみると美濃村氏や豊幹一郎(濡木氏の別名義)氏の緊縛は
現代の緊縛とはちょっと異なったものを感じます。

これは何故なのかと自分なりに考えてみると現在のSM雑誌やSMサイトで
よく見られる様な名前の付いた縛り方(亀甲や海老など)が殆ど見られず、
名前を付けて分類できる様な縛り方は、せいぜい高手小手縛り位なもので
あとは自分の自由に緊縛されております。
では何故、現在のマニアが行う、○○縛りと名前が付いた縛り方と美濃村氏の様に
戦前からのマニアの方の緊縛が違うのでしょうか?
(PC)
2 鈴木♂
海老や高手小手という江戸時代からある縛り方なら伊藤晴雨氏の
唯一の弟子であった美濃村氏が知らない筈はありませんが
私は、亀甲縛りという江戸時代の菱縄を発展させた様な縛り方は
戦後、しかも'70年代位に入ってから登場したのではないかと思っております。

皆様も御存知の通り、亀甲縛りという緊縛方法は相手を拘束するという
実用性に著しく欠けております。
では何故、亀甲縛りという緊縛方法が誕生したのでしょうか?
これはあくまで私自身の考えなのですが、亀甲縛りは'70年代末から'80年代初頭
にかけて徐々に登場してきたSMクラブに於いて誕生したのではないか
と想像しております。

今でもそうだと思いますが高名なSMクラブでは縄師を呼んで
女王様たちに緊縛方法を社内研修させました。
その際に縄師が自分の縛り方を分類する為に、現在ある様な○○縛りという
緊縛方法をカテゴリ分けしたのではないかと思っております。
そして'80年代に入ると家庭用ビデオデッキが普及してきて、各縄師さんたちが
自分の緊縛術を教えるという緊縛入門用ビデオが登場してきました。
その時点でSMの緊縛には○○縛りという縛り方があって、Sが緊縛をする場合には
それに準じなくてはならないという拘束観念が生まれたのではないかと思います。

私なりの結論を書きますと現在行われているSMプレイはSMクラブでの
接客マニュアルや各SMビデオメーカーによって形造られた
マニュアル化されたプレイが殆どで、自分が本当にしたい、されたいプレイが
自分でも分からないか、自分でも無意識のうちにスポイルされている様な
気が致します。
(PC)
3 鈴木♂
今から二十数年前に私がある雑誌で読んだSM嬢さんへのインタビューの中で
私の心に残った質問は「どんな変ったプレイをお客さんから希望されたか?」
でした。
その質問に対するSM嬢さんの回答なのですが
「御年配のS男性が、持参された青竹の上に正座させられて教育勅語
(戦前の大日本帝国における天皇陛下の教育基本方針みたいな訓示)
を音読させられた」
というのがありました。
きっとそのS男性が求めていたS行為はそれだったのでしょうね。

ですから私はMさんの身体や精神が著しく傷つかない程度であれば、SとMの
お互いがそれぞれ本当に望む自由なプレイや緊縛をすれば良いと思っております。

今回の私の文章はかなり電波が入っていましたね(反省&笑)。
(PC)
4 鈴木♂
なお余談ですが「奇譚クラブの人々」の年表によると、東京に初めてSMクラブが
誕生したのは'75年の事だそうです。
'70年代のSMクラブは一種の秘密クラブの様な存在で一般雑誌の取材が来ても
追い返したり、SM雑誌にすら広告を載せたりはしませんでした。
会員からの紹介が無ければメンバーになれなかったり、入会金が¥数十万という
クラブもあった様です。
SM行為を行う人には医師や弁護士などのインテリ層が多いという噂が昔からの
通説ですが、これは反対にそういう裕福な人たちでなければ当時のSMクラブには
通えなかったというのが事実だろうと私は思っています。
(PC)