1 赤龍

邪馬台国について その2

このスレもめでたく2つ目突入。
邪馬台国の謎、魏志倭人伝、卑弥呼、当時の日本と中国の関係、といった三国時代の日本関連について討論しましょう。

前スレ >>>205
邪馬臺國(邪馬壹國?)
(PC)
22 ストラップ
>>19-20
とらいあえず、@の該当箇所と思われる記事を示しておきます。

>>>205-65(携帯端末用)
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50066737.html

尚、>>>205-52に関しては、
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50204231.html
を参照のこと。
(PC)
23 赤龍
>>19
『三国志』の東夷伝には、建安年間、公孫康は帯方郡を設置し、これ以後倭と韓は帯方郡の支配を受けることになったと書かれています。
遼東公孫氏と当時の日本になんらかの関係があったと考えるのが有力であり、邪馬台国問題及び当時の日本を含む東アジア世界を考える上でも、公孫氏は非常に重要な存在ですね。
(PC)
24 兀突杯
巫俊さん・ストラップさん・赤龍さん>
はじめましてレス+張り付け有り難うございますm(__)m
>>23
やっぱり…日本史変わるぞ〜(笑)(資料さえ出ればですが…)
数年抱き続けた疑問が解消した気分です
>>21
畿内説にも二つあったのですね
知りませんでした勉強し直して参りますm(__)m
あと白江村じゃなくて白村江でしたね…申し訳ありませんでしたm(__)m
(SH903i/FOMA)
25 巫俊(ふしゅん)
>>24
ついでに中国の沿海地方では外洋航行の伝統が3世紀のこの時点でもう広範に存在していたりします。

難破の危険性はあるとはいえ、山東半島の魏領を経由することなく遼東半島に使節を送ることが可能になっていますし、
ほかに会稽郡から建安郡(福建省福州市とその内陸)への海上航路が確保されいたほか、
東南アジアから広州の番禺までは南海貿易の航路として海路が完全に定着してます。
一説にはローマ商人の秦論は海路で建業までやって来たと考えられていて、貿易の便宜を得るためか孫権と会見しています。

また6世紀から9世紀の遣唐使の時代と異なり、当時の倭国にはインドネシア語系の海洋民族が海辺に村落をつくっていたとも言語学的に類推されています。
(PC)
26 巫俊(ふしゅん)
〇:
難破の危険性はあるとはいえ、呉は山東半島の魏領を経由することなく遼東半島に使節を送ることが可能になっていますし、

〇:
確保されていたほか
(PC)