1 赤龍

邪馬台国について その2

このスレもめでたく2つ目突入。
邪馬台国の謎、魏志倭人伝、卑弥呼、当時の日本と中国の関係、といった三国時代の日本関連について討論しましょう。

前スレ >>>205
邪馬臺國(邪馬壹國?)
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27 赤龍
>>24
遼東公孫氏と日本との関係を示すと思われる遺物として「公孫氏作鏡」という銘文のある銅鏡が出土しているそうです。
また、「燕国王公孫淵の後」と称する常世連(とこよのむらじ)という氏族もいたようです。
公孫氏と日本の関わりは以前から研究者にも注目されているもので「実質は四国志」とまでいう学者もいるほどです。
ただ、両者の具体的な関係や、邪馬台国が公孫氏とどう接したかというような細かい問題になると、史料が少なくまだまだ分からないことが多いようです。
(PC)
28 飛燕
前紹介した、関さんの著作で言っていたことですが、"どうして日本書紀を無視するのか?"
6世紀以前の記述は信用できないというのが定説らしいですが、ある程度は信用できる、というのが関さんの説。具体的な根拠は欠けていますが(汗)
関さんによると、神功皇后ら畿内政権に反抗した、九州山門の女首長こそ卑弥呼である。その後、山門の地を皇后の妹・豊姫が治めたのではないか?すなわち台与である。と、いうことです。

台与は推定で、ちょっと弱いですが、卑弥呼については相当驚きました。どうして日本書紀にはまったく目を向けようとしなかったんだろう、反省しました。
少し年代がずれている気がしますが、かなり参考になると思います。
(PC)
29 巫俊(ふしゅん)
>>28
具体的な根拠に欠けていたら、全然駄目じゃないですか。^^
それでは解釈しだいで結論が揺らぐということですから、もう少し粘って考える必要があります。
まず『日本書紀』ですが、だれがつくったのか?奈良時代の日本国家の知識人がつくったんです。
卑弥呼の時代のことを新しい日本国家は正確に伝承しているのか?全然してないですね。

3世紀の倭国の記録を全然伝承してないから、神功皇后と卑弥呼が結びつけられているんですよ。
第一、神功皇后の子と称される応神天皇は5世紀の倭の五王の時代に近い年代の人物とされていますから。

『日本書紀』は日本国家に臣従する中国知識人の手を経て編纂された漢文史料ですから、陳寿の『三国志』は史書として参考にされていて当たり前なんですね。
『三国志』は奈良時代には舶来されていましたし、『日本書紀』にも引用されている。

『三国志』に卑弥呼の名前が記録されているのに、日本国家はその時代の歴史を伝承していないとすると、
開祖神武天皇は春秋時代の人であると自称していた当時の日本国家の面目が丸つぶれなんですね。

だから、神功皇后という女性の主権者を持ち出して、『三国志』の卑弥呼のことであると歴史を作為したのだと私は考えています。
(PC)
30 赤龍
>>28
記紀の極端な軽視というのは、一時の流行みたいなものでしょうか。戦前の皇国史観への反動やら、考古学ブームやら。現在の研究者の中で、6世紀以前の日本書紀の記述を全く無視するなんてのはほとんどいないでしょう。
ただ、参考とすべき記述もなかにはあるものの、>>29で巫俊さんが説明もされているように、色々問題とすべき点もあり、そこら辺の考証は慎重におこなわなければいけません。
関氏の本は未読なのではっきりとした批判はできませんが、記紀の記述の中に史実を反映したものもあるという前提はいいのですが、ではどれだけ信用できるかという部分が、しっかりとした考証を欠いたまま、自説に都合のいいとこだけ抜き出したように感じます。
(PC)
31 赤龍
さて、肝心の日本書紀の神功皇后と卑弥呼の問題ですが、>>29で巫俊さんが触れているように、現在比定されてる天皇の時期とはずれがありますね。
ここに中国の史書を引用し、わざわざ卑弥呼の記述をのせた理由としては、前スレでもちょっと触れましたが、神武天皇即位を紀元前660年とする書紀の代々の天皇の編年。それを中国の史書を利用して整合させるためのものとする考えが有力のようです。神功皇后を3世紀(中国の三国時代)の人物としてあてはめるために。
また、肝心な親魏倭王に封じられたとかいうことなどは書紀には書かれていません。天皇が中国の皇帝の臣下という扱いだったということは、あまり好ましくない内容だからと考えられています。有名な宋書の倭の五王のことなんかも全く引用してませんし。
というわけで、卑弥呼=神功皇后というのは、日本書紀編纂の都合で作られたものであり、何らかの史実を反映するものではないだろうと考えられるわけです。意味もなく無視されてるわけじゃないんですよ。
(PC)