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涼州・関中軍閥

涼州・関中の軍閥は討伐されるまでどのような事をしていたのか?などA語りましょう♪
馬超ってカッコイイ?>>>43
謎多き韓遂>>>125
(W32SA/au)
28 しす
>>25-27
ああ、私がファランクスなんて言葉を使ってしまったために余計な議論に巻き込んでしまいました。
申し訳ない(汗)
と言うか、私はそのファランクスを使うギリシャ人が降伏したという話すら知らなかったのですが(滝汗)
(PC)
29 赤龍
私も初めて知った話です。胡散臭くてつい興味津々で(笑)
話をもどしますと「長矛の扱いに習熟し」というのが、長矛の使用がその地の兵の特徴だったのか?それとも「武器の扱いが巧み=戦なれした強兵」ということを示す表現なのかも?ということを考えて悩んでいます。
(PC)
30 巫俊(ふしゅん)
ギリシャ人じゃなくてローマ人説だったんですね。それもカエサルのいた時代のローマ兵だったという説。

ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~xuan-he/
ここで特集されてるみたいです。
別のページには長矛の集団使用説の紹介もある様子。

驪軒(漢字はこれとは少し違うけど)という甘粛省にかつてあった漢代の県はローマ人の集落だという説だそうですが、
驪軒(ローマという意味だとその説はいう)という言葉の謎は残ってしまうし、それとは全然関係ないにしても、魚鱗の陣を使う歩兵集団や木製の城を構築する技術など、断片的だしローマ人だとする必要もないのですが、
そういう記述からすると、西域には匈奴のような遊牧民だけでなく、漢人と同じ農耕をする民がいるという衝撃が漢側にあったものと思われます。

技術力ではトップクラスと漢人が思っているだけに、西方世界に何か別のものを発見するとそれはやっぱり衝撃でしょう。
漢とローマの関係と聞いてググッと心を動かされるのは、両方の歴史に通じている現代日本人だからですけど(笑)

大秦国(ローマ)とか大夏国(バクトリア、現在のウズベキスタン)とか、何故か中国王朝の名前で呼ばれていることにも留意した方がいいと思います。
そして他ならぬ大夏国というのが、ギリシャ人の建国した国家ですから。
アレキサンドロス大王(中国の戦国時代のときの人)が制圧して代官を置いたのがバクトリアで、もちろんバクトリアのギリシャ人は現地の民族と混交が進むのですが、考古学の発掘によって列記としたギリシャ文化の数々(神殿やゼウス像、文物、生活道具など)が中央アジアのこの地より見つかっています。

そして秦の時代、甘粛省一帯を支配していた月氏という遊牧民集団は、東は甘粛から西はバクトリアまでを勢力範囲にしていたと考えているのが小谷仲男氏(東方選書『大月氏』の著者)です。
槍や矛の類のものの新しい使い方が西方から伝わっても別段おかしなことではないと思うんです。
だって涼州の西部ってそもそも西方の月氏や匈奴の支配する地域だったんですから、漢人は入植する側だったわけです。
甘粛には前漢時代、国営の開発政策が積極的に振興されていました。
結局のところ、長矛とファランクスの関係なんて夢物語に過ぎないんですけど。

ほかならぬ剣自体が、かつて西方から中国に伝わったものですからね、ちょっと気になってしまうんです。
(PC)
31 巫俊(ふしゅん)
>>10
河東が関中の範疇に入るというのは、考えたことがなかったです。
あまり現在の地理区分としても使いませんしね。
「関中」で二十四史を検索すると泡を吹くことになるので、試してませんが、関西はたしかに河東を包括するみたいです。

さて関中とか、関西とかの「関」とは函谷関という、関中平野と河南の洛陽地域を結ぶ山中の街道に設けられた関なわけです。

そこから「東」にある河東の郡治の位置がどうして関西になるのは長らく謎でしたが、2008年、タイムマシンの発明によってついに明らかになった...
じゃなくて(笑)違う違う。

要するに河東郡が設置されたのは、戦国時代後期の秦の政権によって、戦国魏の河東地域が制圧されたことにはじまりますが、明らかな関外なわけです。
司馬遷も、「河東と河内と河南は王者のいたところ」と書いているように、河東地域を河南地域といっしょに三晋地域として叙述しています。
どちらかというと、河東は広義の中原に入るんじゃないでしょうか?

で、本題ですが、漢代のいつか忘れましたが、なんと函谷関がほぼ112キロメートル前後東方に移動したという事実が発覚(笑)。生半可に古代の知識があるだけに騙されてました(笑)
まさかこんなに移動していたとはね。
河東郡のほとんどが、いつの間にか関西に化けているではないですか。

たまたま私の手元に、『中国歴史地図集』の、戦国魏韓のページと西晋司州のページのコピーがあるんですが、
定規で計測してみました。
戦国時代の時点の函谷関は、西晋時代における弘農郡の郡治の置かれた位置とほほ同じ地点なんですが、
西晋時代の函谷関は、112キロ前後東方に移動していて、ほとんど洛陽のすぐ手前の山中に置かれていたことが分かります。

おそらく曹操も移動した函谷間はこの洛陽の近くの位置の函谷関であって、
老子が函谷関の関守に老子経を伝授したりとか、孟嘗君が食客の鶏鳴狗盗の能力で函谷関を脱出したりとか、そういう漢代以前のエピソードに出てくる函谷関は別ということです。

故の函谷関とか呼ばなければいけないのかな、、、
(PC)
32 赤龍
函谷関の東遷は、漢の武帝の時ですよ。
『中国歴史地図集』は非常に便利な資料ですが、これの欠点は等高線が書かれていないこと。つまり、実際の地形がイメージできない。そのため、そうした地理・地形に基づいた理解がしづらいということです。
等高線のある地形図を参照すると、函谷関の位置云々以前の問題で、河東郡の中心地域が関中盆地とひとつづきの場所に位置することがわかります。そして、河南、河内とは山によって隔てられていることが。
河東郡の豪族達が、馬超ら関中諸将と行動を共にしたことは、単純な行政区分や地図の平面的理解でなく、実際の地形・地理の問題をふまえなくてはいけません。
(PC)