1 赤龍

邪馬台国について その2

このスレもめでたく2つ目突入。
邪馬台国の謎、魏志倭人伝、卑弥呼、当時の日本と中国の関係、といった三国時代の日本関連について討論しましょう。

前スレ >>>205
邪馬臺國(邪馬壹國?)
(PC)
32 飛燕
お二人とも少し勘違いされています。>>28神功皇后=卑弥呼じゃなくて、神功皇后らに反抗した山門の女首長=卑弥呼と、関さんは言っているのですよ。たいして変わらないかもしれませんが。あと、本居宣長の"九州の女酋長が、畿内に対抗するため、大和の王を偽称して魏に朝貢した"という考えを支持していました。

日本書紀を史書に無理矢理結び付けただけの書物、という解釈が、日本書紀を軽んじているという関さんの主張につながっているようです。
巫俊さんは全く伝承が伝わってないとしていますが、それこそ何故ですか?奈良の知識人なら、それくらいかき集めてくるんじゃないですか?大きい連合の様ですしね。少しは何か残っててもおかしくないのでは?大体、畿内から出る鏡は九州の邪馬台の一味から奪ったりしたんじゃないか、という説がありながら、大和政権は邪馬台国の事知りません、てそっちのほうがおかしくないですか?
関係ない方向にいってしまいましたが、断定はよくないと思うので。

神功皇后をそこまで否定していいのか、と単純に思ってしまうのですが。もしかしたら、本当に一致しているとか。
でも、悪あがきかもしれませんね。考えるほど、きりのないことな気がしますし。
(SH902iS/FOMA)
33 巫俊(ふしゅん)
>>32
>お二人とも少し勘違いされています。

そこは勘違いしてないんじゃないかな、神功皇后=卑弥呼説の根拠を崩したら、神功皇后・卑弥呼並立説の根拠も崩れてしまいますから。

>断定はよくないと思うので。

そうですね。注意深く見つめる必要がありました。
(PC)
34 兀突杯
飛燕さんはじめましてm(__)m
早速ですが、>>28>>32についてですが関氏の発言はおかしな点と面白い点があると思います。
・おかしな点
関氏は豊姫=壱与・山門の女酋長=卑弥呼と書いてありますが、壱与は卑弥呼の一族(魏志にはっきり『宗女』と書かれています)でありおかしいと思います。
神功皇后=卑弥呼・豊姫=壱与なら一応成立しますが凄く怪しいです。
・面白い点
山門の女酋長=卑弥呼ではなく、山門の女酋長=壱与だと不思議と繋がります。
(SH903i/FOMA)
35 巫俊(ふしゅん)
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/syoki/syoki09.htm

『日本書紀』巻九神功紀の電子テキストです。
神功紀とは神功皇后本紀という意味の漢語です。
皇后の和名はオキナガタラシヒメノミコトとされているです。

九年春三月丙申の条が問題の一節ですが、
神功皇后の実在に拘る場合は、前後のほかの条なども検討を要すると思われます。

さて神功皇后が神功皇后であると我々が認識できるのは、本紀に神功皇后の事績が編年付けられて記録されているからです。

そしてこの掲示板でこれまで話されてきたことから了解されますのは、

―――
死後数百年の後に神功皇后という漢風の諡号で呼ばれることになる巫女王が近畿地方にいて、九州の山門の巫女を斬った。
ただし『日本書紀』の記録するところに由って類推しているのであり、 『日本書紀』の記録に間違いや改竄があったと考える場合はこの限りではない。
―――

ということだけです。
考えてみてください。これだけだと神功皇后という日本史上有数の個性的な女性に同定する必然に欠けるということが明らかだと思うんですが、
神功皇后の本紀が立伝されているのは、応神天皇という日本国の帝室の直系祖先を産んだ巫女王がオキナガタラシヒメノミコトだったからに過ぎません。
日本神話を渉猟してみれば分かることですが、有史以前の巫女王の記憶が反映されていると考えられているヒメはオキナガタラシヒメノミコト以外にも沢山いるんです。
(PC)
36 巫俊(ふしゅん)
オキナガタラシヒメノミコトと山門の巫女の争いは、かすかな歴史の記憶を伝承するものとして非常に興趣あるものですが、
例えば4世紀の東晋時代に邪馬台国の末裔を称した山門国が筑後平野の南隣の山際にあり、そこの巫女王がオキナガタラシヒメノミコトに討たれた。
と解釈することができます。

この解釈をとれば、4世紀の山門国は邪馬台国の末裔を称していた国ということになり、3世紀の邪馬台国は4世紀の山門国からそう遠くない別の地域にあったと考えることもできる訳です。

そして東晋司馬氏を簒奪して宋を建国した武帝劉裕の末年に倭王讃の使者が江南に来るのですが、それは421年のことです。
このときの倭国を宋書は「高驪の東南大海中に在り」と記し、これより17年後に来た倭王珍の使者は倭と百済新羅など朝鮮南部六国の都督を自称しています。
多少ハッタリかましているとしても、438年の時点では朝鮮半島への野心がうかがえ、国家統合が進んでいることが類推できます。

421年からそう遠くない過去に山門国など九州の国を滅ぼして、中国王朝に倭王の名目で交渉する権利と実力を得た近畿地方の王統がオキナガタラシヒメノミコト以下の系統だったのではないかと推察してみました。

倭の五王についても、近畿説と九州説があったような気がしますが、少なくとも編年を無視して「近畿の神功皇后、九州の卑弥呼」と考えるよりは正確を期していると思います。

慎重に正確を期したとしても、それが真実とは限らないわけですが。
あまり安直に神功紀の記録を卑弥呼の時代のものとするよりは、編年を重視した解釈の方に整合性を感じています。
(PC)