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涼州・関中軍閥

涼州・関中の軍閥は討伐されるまでどのような事をしていたのか?などA語りましょう♪
馬超ってカッコイイ?>>>43
謎多き韓遂>>>125
(W32SA/au)
38 巫俊(ふしゅん)
>>36
私は等高線を使った研究は試したことがないのですけど、研究上の地域の区分なのは、まさしく断続か連続かの選択の連続でした。

河東地域と関中地域の関係についてもそれがいえますね。


『漢書』溝洫志の本文と注には、河東郡を関外として扱っているように感じますけど、水利の用語は煩雑でよく釈読できません。
どうやら河東郡を経由して関中の長安に穀物を移送するという話のようですが。
年号を確認したところ、武帝の元鼎年間より以前のようですね。

最初は関外だったということもお分かりいただけると思いますし、

『漢書』地理志では、河東と河内は魏地と書いてあります。
『史記』貨殖列伝では、三河の地は世界の中心であると書いてありますし、第一河東郡は帝堯の都の故地とされています上に、夏王朝の発祥の地でもありますから(もちろん伝承上の発祥地)、夏王朝を中原王朝と呼ぶ場合は、この河東の地も包括することは明確だと思います。

新石器時代の土器の研究では、河東と河南は二里頭文化を共有する地域で、土器の形式には密接な関連があります。

つまり、「中原」と河東の間には、インド亜大陸の衝突で形成された華北西部の険峻な地形をも越える人為の関係があったといえるでしょう。

交易は無論のこと、中原王朝や先秦時代の群雄(晋〜魏)は、河東と関中との関係よりも、河東と河内、河南の関係を重視しているのです。

有名な話では、孟子に載っている内容で、河東が食料不足のときは河内に人民を移動させ、河内が食料不足のときは河東に人民を移動させるという、魏の自慢の福祉政策ですね(これは五十歩百歩として孟子に批判されるが)。
(PC)
39 巫俊(ふしゅん)
河東は晋の故地であり、秦の故地である関中とは、戦国時代後期に秦が河東地域を蚕食するまで、長らく対立抗争の関係にありました。

秦によって河東郡が設置されてからも、楚漢期の河東は西魏王豹の領地であり、要するに関中とは一線を画しています。

平原が続いているとはいえ、黄河で隔てられていることは大きいですし、戦国時代の河西に魏の長城があって、それで秦の東進が防がれていたことも重要です。

こう書いてきましたように、中国においては、経済原理による自由な交易よりも、国家間の関係による国家に富を集中させる政治原理が優越することが多いのです。

人は気ままに大地を歩いているのではなく、国家の統制を受けているので、国家の事業によって大規模な経済政策が遂行されます。
これはどういうことかというと、戦国時代中期以前は、河東と関中を包括する統一国家が存在しないために、河東の富は魏の中心である中原に向かって流れるようになっていました。

過酷な律令で戦争遂行に人民を駆り立てる秦に対し、三晋の都市民は抵抗し、惨禍が起こりました。
その上に河東郡が設置されたのですから、戦国時代の研究からすると、関中との「断絶」を想定した研究が行なわれています。

一方では秦によって統治され、秦との経済的結びつきが強くなっていくというのも考えられます。
武帝の時代にはなお関外として扱われていた河東郡が、武帝による函谷関の移動によって、関西に組み込まれるのは、戦国時代後期からの連続として研究できると思います。

『史記』貨殖列伝にも、河東と秦の間に交易があると書いていますしね。

河東は両属性のある地域だと私は考えますが。
(PC)
40 赤龍
巫俊さんが博識なのは十分理解してますが、議論の際は論点が何であるのかをよく考える必要もあると思いますよ。
私は、河東郡の諸豪族が馬超の反乱に同調している事実について注目。河東郡は一般的に>>38のように河内・河南の地とのつながりが重視され、関中地域に含まれるようなイメージはないが、地形図を見ると一目瞭然なように、関中盆地とひとつづきの土地(さらに河川でも結ばれている)である。こうした地理的な要因があり、河東郡の諸豪族が馬超に同調したのであり、この場合関中に含めて考えていいだろうということを述べているのです。
河東と河内の文化的・歴史的なつながりは全く否定した覚えはありません。
さらに、>>33の「だったら洛陽は中原じゃないだろ」と的外れな屁理屈で茶々入れられてるから、私も地図の見方なんてのを説明しなきゃいけなくなりましたし。
もう一度議論の焦点は何かを考え、河東郡の諸豪族が馬超の反乱に同調したのは、それではどういう理由によるものとお考えですか?
(PC)
41 赤龍
>>38
あと「等高線を使った研究は試したことがない」と言われてますが、私はただ地図を見て地形も確認する必要と、当たり前の地図の見方・使い方を説明してるだけですよ。
(PC)
42 巫俊(ふしゅん)
>>40
茶々ではありません。(受けて側には説明不足なレスでしたが)
私は本気で洛陽は何も遮るもののない中原ではないと言っています。
三河の地は「山南山北河内河外」などと総称される複雑な形状の土地ですが、
漢代以前までの人間の生態では、後年の宋代のような大運河があるわけでもなく、山がちで充分だということです。
この山を見て、蜀険のような人の往来が不可能なところと連想すると、古代王朝が何故ここに成立したのか理解できなくなってしまいます。
赤龍さんがスレに忠実なのはいいですが、「函谷関の位置云々以前の問題」「実際の地形・地理の問題をふまえなくてはいけません。」「河東は関中盆地とのつながりの方がより強く感じられると思います。」といったお考えが、かならずしも首肯されるとは限らないことを念頭に置いてくださいね。
赤龍さんが間違っているといっているのではなく、そういうレスが帰ってくると、こういう反応が帰ってきて、「誤解を解く」レスでスレが埋まるというのは、私も同じ思いなのですよ。
>>32に限って言えば、私が関外と関内の誤解のもとを取材して説明をしているのに、どうして河東の程銀らの問題にすりかえられて「平面的理解でなく(中略)の問題をふまえなくてはいけません。」とレスがかえってくるのでしょう?

私へのレスではないというのならいいですよ。
まるで函谷関の位置なんて問題ではないと言っているみたいに聞こえます。
(PC)