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涼州・関中軍閥

涼州・関中の軍閥は討伐されるまでどのような事をしていたのか?などA語りましょう♪
馬超ってカッコイイ?>>>43
謎多き韓遂>>>125
(W32SA/au)
このスレ、頭から読みましたが、半時間程かかりました(汗)
論旨が解り辛かったので、ちょっとだけ。

>>10で赤龍さんの言われる事を抜き出すと、
「河東郡は(--中略--)関中の範囲に含めて考えてもいい」
という事ですよね。
>>40でも繰り返し
「(河東郡を)この場合関中に含めて考えていいだろう」
と述べられております。
これは決して「河東郡は関中である」という主張と同一ではありません(事実河東郡が関中であるか否かは別として)。飽くまで「考える」というところがポイントなのだと思います。
これは、三重県の西側に住む人々が、自分達を近畿の人間だと考えている様な事柄と同じ事を指しているものだと思いますよ。
(PC)
44 赤龍
まず「中原」については、お互いの認識が違っていますね。巫俊さんは、厳密に一つながりのだだっ広い平原を指し、私はもっと広い意味の一つの地域の名称を指しています。これが話がかみ合わない原因。まあ、これは話がまたそれるので置いておきましょう。

次に「問題のすりかえ」とか「函谷関の位置なんて問題でないと言っている」とか悪意を込めた解釈をされてますが、違いますよ。
巫俊さんは>>31で、河東が関西と考えられた要因として、函谷関の東遷の問題に終始されており、それ以外の解釈が無い。私には、そういった平面的な、単なる名称の変更といった理由だけでは、当時の関中とのつながりは到底考えられない。そこで地形的な問題を見る必要を提起したのですが。

私の考えが「かならずしも首肯されるとは限らないことを念頭に置」くよう言われてますが、私の一意見であり当然のことです。むしろ、前回の件も含め、巫俊さんにこそ自分の意見を批判されると、悪意を込めて解釈し感情的になる傾向が見られますよ。議論の際はそうしたことを念頭に置き、>>40でも触れたように議論の流れや論点は何かということをよく考えていくといいかと思います。
なんか偉そうな事言って申し訳ないです。
(PC)
45 赤龍
>>43
毎度の事ながら、私の下手な文章を纏めてくれてありがとうございます。

>>42
もう一つ指摘しておきますと、私の「河東は関中盆地とのつながりの方がより強く感じられる」と思うというのは、>>35の直前の文章を見てわかるように、河川によるつながりについて限定したものです。それをこの部分だけ引用すると、私があたかも全般的に河南・河内とのつながりを軽視した発言をしたような印象を受けます。引用というのは、忠実にその一部を引用したとしても、他の部分を省く事により全く違った印象を感じさせることが可能になります。この場合は、私の文章が稚拙なせいで勘違いされたのだろうと思いますが、引用文というものを考えるときの実は重要な問題なので指摘しておきます。
(PC)
46 巫俊(ふしゅん)
>>45
引用文は読者が原文を参照すれば問題はないですね。
三河の関係を軽視なさっていないとのご自覚ですが、正確な判断です。
ご自身に自覚症状はないのですから。
自身は客観的な判断をしている、それに及ばなくてもそう務めている、と判断なさっている以上は自覚できるはずもありません。
人間の思考はそういう風にできていますから、>>44で悪意で解釈されているとご判断なさるのです。
(PC)
47 巫俊(ふしゅん)
仮に赤龍さんが、相対的に軽く考えている部分を「軽視」と、相対的に重く考えている部分を「重視」と便宜上呼ばせて頂きます。

「軽視」部分は、平面的な単なる名称の変更。
「重視」部分は、河川や平野といった自然な地形の問題。

私は地形を重視するのに少しもやぶさかではないですが、平面的な単なる名称の変更という解釈は疑問に思います。

河東地域の地理的位置は、(武帝期以前の故)函谷関・武関・散関・ショウ関を四角で囲んだ線よりも、大幅に東北辺に飛び出していることは明瞭です。

赤龍さんはストラップさんのまとめによりますと、「河東郡は(--中略--)関中の範囲に含めて考えてもいい」とお考えなのですから、この問題は三国時代のみならず、4世紀の五胡十六国時代の地理的理解から、ひいては7世紀以降の唐代の「唐代長安城与関中平野的生態環境変遷」といった研究にまで、関中の歴史的範囲について再考を求めることになるのかもしれません。赤龍さんはそこまで考えておられないのかもしれないですけれども、立体的な地形の理解と文献上の関中の位置の理解に少しもやぶさかではないですよね?
(三国時代に限ってのことなら)

単なる名称の問題なんてものじゃないですよ。杜畿伝を拝見しましたが、そこで河東は明瞭に関西と定義されていますからね。
(PC)