1 赤龍

邪馬台国について その2

このスレもめでたく2つ目突入。
邪馬台国の謎、魏志倭人伝、卑弥呼、当時の日本と中国の関係、といった三国時代の日本関連について討論しましょう。

前スレ >>>205
邪馬臺國(邪馬壹國?)
(PC)
7 飛燕
レス遅くてすいません(汗)
文化的共通点についてはちょっと良く思いつきません。その「文化的」というのが例えば、青銅器の用い方が実用だと細形、祭用だと広形、だとかそんなのでも良いのでしょうか。

異文化だから従っていなかった、ということについては、それはそれでいいと思います。だからこそ役人を伊都国において、監視させてたのかもしれませんしね。

中国地方が文化の中心と考えてもおかしくない、と思うのですが。少なくとも九州よりは可能性があると思います。だってその後のヤマト政権が生まれたのは、確実に近畿なのですから。周辺に型となる文化は当然あったでしょう。
九州と近畿の文化が混じり合って中国文化が生まれた。その象徴が、出雲や吉備や荒神谷なのではないですか?そしてこれに近畿文化が触発されてヤマト政権が生まれた。この流れはおかしすぎますかね?

それに文化というものは、社会が荒れれば荒れるだけ磨きがかかるのだと思います。だからこそ、春秋・戦国に諸氏百家が出てきたのだと思います。そういう意味でも、安定性に欠けていた中国地方は、文化の中心になり得る資格はあるのではないですか。
(F900iC/FOMA)
8 飛燕
>>5-6
ちなみに、周の時代で1里は約100メートルだそうです。もちろん信じていません。

こういう学者さん達って中国史の勉強不足だと思ってしまいます。「倭人伝」なんて呼んでる時点で何となくわかりますが。「倭人条」が三国志のオマケ的存在だという認識に、欠けているのだと思います。この状態のままでは、邪馬台国論争は一生ヘリクツの言い合いなると思います。
(F900iC/FOMA)
9 赤龍
飛燕さんの一連の中国地方説を見て感じることは「中国地方も候補地になりえる」という可能性については繰り返し述べられているものの、「中国地方でなくてはいけない」という点に関してはかなり弱いように感じます。
例えば>>7
大和政権の型となった文化が中国地方にあったと仮定されますが、では逆に中国地方が近畿の文化に触発された可能性はどうなるのか?安定に欠けていたから文化の中心となりうるとされますが、安定した勢力を築きあげたほうが中心となる可能性だって充分ありますよね。

ちなみに、私は邪馬台国は必ずしも当時の日本の文化的なり政治的なりの中心、最大の勢力である必要は無いと思っています。「倭王」の名にとらわれすぎることは無いということです。
(PC)
10 赤龍
「魏志倭人伝」「倭人伝」という通称自体は、もう一般的なものであり、そう呼ぶこと自体はなんら問題はないように思います。ほんとに一流の研究者の方々でも普通に使われてますし。
「短里説」なんかは、真っ当な研究の場では相手にされてないように思えますし。実際の研究状況は飛燕さんが批判されているようなものばかりではないですよ。
(PC)
11 赤龍
ちょうど古本屋で古田武彦の『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫)を見つけたので、ちゃんと本人の著作を読まずに批判ばっかするのも悪いなあ、と思って買ってみました。
他にも何冊か買ったんで、あいかわらずちゃんと読むのはいつになるやらですが。でも、どうせ200円だったし(笑)
(PC)