1 しす

関羽綜合スレ(関帝 その2)

>>>99の続きです。
本スレは神としての関羽、つまりは関帝(関帝聖君)について語るスレでしたが、武将としての関羽にも言及が及びましたので、関羽スレとして引き続きお願いします。
もちろん三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君についても引き続きこちらでお願いします。
また前スレでは関公の侍神、周倉、関平にも及んでいますので合わせてどうぞ。
(PC)
61 しす
>>58
魯粛伝を読み直してみたのですが、どうも私にはここで本格的な外交に関する話がなされていたとは思えないんですよね。
関羽に外交権があったというよりも、最前線に関羽がいたから、まず関羽に会いに行ったと考える方が自然だと思うのですが。
私は劉備の考えとしては、彼に外交権を与えたのではなく、外交権のない彼を矢面に立たせることで問題を先送りにしようとしてるようにすら思えます。
(PC)
62 朱家
関羽に専行権を与えるのは漢中王の後で、自由に軍を動かす権限もないのに、外交権があるとは思えません。
「単刀赴会」は演義の影響だと思いますが、『正史』によれば、益州平定後、孫権が荊州返還を求めたが、劉備が拒否して、孫権は軍を発し、劉備も軍を発し、関羽は先鋒的な立場でしょう。「単刀赴会」はその後で、孫権とすれば、最初の交渉も、軍による圧力も、完全に交渉決裂した劉備と再び交渉するのは、非常に弱腰で士気に影響すると思われます。魯粛も交渉ではなく、道理に外れてる劉備を説得しなさい的な感じだと思います。
しかし魯粛とすれば、想定内だったと思いますね。軍を発した時点で、全土返還は不可能で、追い詰めて開き直られるのも困るので、こんなとこだろうって感じだと思います。無血での全土返還は、関羽が劉備を説得するぐらいしかないですしね。
(PC)
63 しす
>>57-60
実家で学生時代に買った本を整理していたら、新人物往来社の『三国志縦横談』で周倉に関する記述を見つけました。
以下原文のまま。

また『山西通志』に次の記載がある。
「周将軍は平陸の人なり。初め張宝の将たり。後に関羽と臥牛山に遇い、ついに相従う。樊城之役に生きながらホウトクを擒え、後、麦城を守りて死す」

『山西通志』は後代に書かれたものだし、あまりにも演義の周倉像そのものなので資料的価値はどうかとも思いますが…。
(PC)
64 巫俊(ふしゅん)
『山西通志』・・・昨年うっかり読み逃したので、個人的に今となっては垂涎の的の地方誌なんですが、
所蔵してない図書館が多くて困っています。
(PC)
65 ストラップ
>>63
という事は、周倉は山西省の出身という認識がなされている訳ですね。関西人、と書くより、「平陸県」と詳しくなってますね。
(PC)