1 しす

関羽綜合スレ(関帝 その2)

>>>99の続きです。
本スレは神としての関羽、つまりは関帝(関帝聖君)について語るスレでしたが、武将としての関羽にも言及が及びましたので、関羽スレとして引き続きお願いします。
もちろん三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君についても引き続きこちらでお願いします。
また前スレでは関公の侍神、周倉、関平にも及んでいますので合わせてどうぞ。
(PC)
68 巫俊(ふしゅん)
>>67
そこで参考になるのが唐代に書かれた『通典』という書物です。
少しばかり引用するとこうあります。

本文

陝 州・・・(中略)・・・春 秋 虢 國 之 地 , 所 謂 北 虢 也 .

注釈

虢 仲 國 , 今 平 陸 縣 .

虢國(かくこく)という国は、西周時代から春秋時代の前期にかけて、この地にあった国の名前です。
この国の城跡からは鉄器が発見されていまして、往年の虢國(かくこく)は強国だったようです。

虢國(かくこく)は下陽と上陽というふたつの首邑をもっていまして、下陽は山西省平陸県にあり、上陽は河南省陝県にあります。
このふたつの城はそれぞれ黄河の北岸と南岸にありまして、実は黄河を挟んで隣あっているんです。

考えてみると、ここに茅津という黄河の渡し場があるのも合理的ですし、南岸の陝県に函谷関があるのも、立地的にかなっています。

唐代以降の平陸は、関西と関東を結ぶ接点にもあったといえますね。
(PC)
69 巫俊(ふしゅん)
>>67
能書きが長くなりましたが、演義が流行した伝統的な中国社会において、
周倉は関羽に仕えた武人として、一定の敬意を払われていた訳です。

例えば、福建地方の伝統的な歌謡を集めたものに『閩南語俗曲唱本「歌仔冊」』というものがありますが、
赤壁の戦いを歌った歌詞が何種類かありまして、

雲 長 周 倉 來 領 令

という一句を見出すことができます。

領令は、雲長・周倉が軍隊を引率するという意味か、もしくは雲長・周倉が孔明の命令訓示を受けるというような意味だと思われます。
(PC)
70 巫俊(ふしゅん)
ところで、清代に朱子光という人が台湾にいまして、『關聖帝君祀典序』という千数百字くらいの短い文章を残していまして、関帝廟や関羽の神について雑多な考察を書き連ねてあるようです。
周倉は陳寿の三国志には出てこないとか、なんか正史派の原点みたいなこと書いてあります(笑)
これは19世紀の前半に書かれたってことがはっきりしてるので、いつの時代に関羽と周倉がどう扱われていたか、とかを知る史料になるようですよ。

ということで、一人で興奮しながら読んでるんですが(笑)
長くなりそうなんで、これも私のブログに書くことにします。

けっこう周倉関係の伝説はありそうですね。
(PC)
71 天草
>>61-62

メチャメチャ亀レスですが、ご意見拝見しました。
実は私も関羽には特別な権限があったとも思いませんし、まして別勢力として同盟関係だったなんて思いたくありません(笑)

でもそれでは議論になりませんから、何か材料を探してみます。
もし他に『関羽外交権所持説』『関羽独立勢力説』を唱える方がいれば、意見を下さい!
(N902i/FOMA)
72 赤龍
関羽の外交権の有無の問題、演義で「単刀赴会」とされる場面の主に関羽の行動に注目した議論がなされてますが、視点を変えて魯粛の方にも注目してみようと思います。
>>58で、魯粛がなぜ劉備や諸葛亮でなく、関羽に会いに行ったのか?という問題があります。
魯粛というと、演義の影響で外交官、下手したらパシリ(笑)という影響がありますが、実際の当時の彼の立場は荊州方面の前線の軍の司令官でした。そして、この時荊州の帰属をめぐる問題で、孫権はついに実力行使にでて、劉備もそれに対し、関羽にそれの阻止に向かわせます。つまり、両軍が一触即発の状況。前線の司令官である魯粛が、現場をほったらかして、劉備の元に外交に向かう事はまずないでしょう。
前線の指揮官である魯粛が、同じく対峙する相手の前線の指揮官である関羽と会見。孫権軍を代表し自分たちの主張を関羽に伝えた。こういう事だったと私は考えます。
つまり、もとより相手が外交の使者ではないので、この件から関羽の外交権も主張することもできないということです。
(PC)