1 ユウキ

夷リョウの戦いについて

法正スレで夷リョウの戦いについての話題が出たんでスレ立てました孔明は東征に本心から反対だったのでしょうか?また諸将が反対した理由はなんだったのでしょう?賛成派はいなかったんでしょうか?皆さんの意見待ってます
(P900i/FOMA)
2 ユウキ
僕の意見ですが孔明は内心反対してなかったのでは?その理由は
ケイシュウはショクにとって重要拠点であり、ケイシュウ無しでは天下三分が成り立たない事を一番わかっていたのは他ならぬ孔明だからです

取られたまま呉と友好関係を築いたのではケイシュウは永遠にショクの物ではなくなりますし
むしろ取り返す必要があったのでは?ソウヒを警戒してというのはわかりますが実際魏軍は動いてませんし
(P900i/FOMA)
3 天草
もし、呉との関係を友好的なものに戻したければ、孔明や趙雲が反対するのも頷けます。
やはり最小国の蜀が魏も呉も敵に回すのは自殺行為でしょ?それは呉にとっても同じ。呉からすれば、荊州は返してもらって当然の地ですから、大義は呉にあった様な気がします。

あくまでもこの戦は『私怨』によるものですから。。。
(PC)
4 ユウキ
そうですねただ魏と呉は敵に回すのは得策でないにしても私怨なんでしょうか?確かに長い付き合いとはいえ1将軍の為に動きますかね?
(P900i/FOMA)
5 赤龍
はじめまして。赤龍と申します。以後よろしくお願いします。
私もユウキさんに近い意見です。諸葛亮の天下三分の計は荊州の存在が必須。加えて、当時の蜀の上層部は多くは荊州人で占められていました。彼等の故郷であり本拠地でもある荊州。奪回を望む声も少なくなかったと思われます。これらから、私も単に劉備の私怨によるものだけでないと考えます。
(J-SA05)
6 ユウキ
赤龍さん初めまして書き込みありがとうございます
というか孔明はショクの重鎮であって名声もあり誰もが尊敬する人物であるはず趙雲がはっきりと反対したにも関わらず孔明はあまりに態度があやふやと言うかはっきりしないのでは?

諸葛瑾が呉にいたとはいえ国の運命を決定する大事な戦いでの孔明の態度は不思議です比べるのはおかしいかもしれないですが赤壁の時の張紹じぃさんとはあまりに…
(P900i/FOMA)
7 天草
天下三分の計スレを立てて語ろうかと考えてましたが、こちらに私の考えを書きます。

孔明は天下を三分にてそこで終わりでも構わないと考えていたのではないでしょうか?少なくとも劉備が死ぬまでは。
劉備が、死んだのをきっかけに考えを改めたのではないかと?と考えてます。

ですから…この時点で、無理して荊州奪回に走る必要は全くなかったのでは?と思います。
(PC)
8 ユウキ
天草さん実はさっきからずっと思ってるのですがタイトル『イリョウの戦い』より 『天下三分の計について』の方がいいですね
(P900i/FOMA)
9
お邪魔させていただきますm(_ _)m
私見ですが劉備の東征はやはり弔い合戦だとおもいます。荊州奪還の目的もありましょうが…。時間が空いたのは不思議ですが。関羽の死で思い立ち、張飛のあっけない死で引くに引けなくなった。
他にも馬超黄忠ビ竺も死んでましたっけ?彼らが消えてもショク健在を示すための戦いだったかも。

ところで呉ショクの戦力差はどれくらいあったのでしょう(?_?)
(W11K/au)
10 ユウキ
弔い合戦…うーんどうしても違う気が…あっでもソウソウも父親殺されて除州大虐殺やってますね
(P900i/FOMA)
11 くわぁびん
魏、呉、蜀の国力差は、ろ6対3対1ぐらいでしょう…。

蜀の益州はかなり肥沃な地なれどたった一州では話にならない…
(SH900i/FOMA)
12 くわぁびん
魏、呉、蜀の国力差は、6対3対1ぐらいでしょう…。

蜀の益州はかなり肥沃な地なれどたった一州では話にならない…
(SH900i/FOMA)
13 しす
かなり亀レスですが、私も劉備の東征は弔いであったとは考えていないんですよね。
弔いは大義名分ではないかと思ってます。
もちろん関羽を殺されたことに対する怒りはあったでしょうけど。
荊州奪還はもちろん戦略的意図もあったとは思いますが、もう一つ劉備配下に荊州人士が多かったのも影響してると思います。
ま、在り来たりな考えではありますけど(自爆)
(PC)
14
ショクの国としての戦争目的は荊州奪還であったろうと思います。
…が劉備にとっては復讐な気がします。彼がもし私情をはさんでいないなら、あの時点での戦争はなかったのではと考えます。

ヤクザ皇帝が義兄弟を討たれ、お礼参り→ついでに領土拡張。これもありきたりですが、劉関張のような侠の精神溢れる人にとっては国や皇帝といったものよりも、優先するものがあるのかもしれません。
(W11K/au)
15
完全に私見ですが、民衆にとって劉備を劉備たらしめるためには、いかざるを得なかったのではないでしょうか

民衆にとっての劉備は、たとえどんなに不利でも仇をとりにいく必要があったのではと
(F900i/FOMA)
16 天草
C殿>そういう予想は個人的に好きです。

つまり、劉備は『劉備玄徳であるために』進軍したというわけですよね?

ある意味、そういう時代だったのかもしれませんし、一理あると思います。
(PC)
17 ストラップ
山峡ダムが建設されているあたりが古戦場になるんでしょうか?
(PC)
18 黒耀竜
>>17
 『中国歴史地図集』と現代の地図を穴があくまで見比べたのですが、劉備の駐屯した猇亭(字が出るかな?)は三峡ダムよりいくぶん東方にあるようです。
 もっとも、それほど大きく隔たっているわけではなさそうなので、私も「大まかに言えば三峡ダムの辺り」で良いと思います。
(PC)
19 周公旦
はじめまして

色々と意見が出てるみたいで…

まとめるとこんな感じですか…

1、劉備が劉備であるための「関羽の弔い合戦」
2、国として、天下三分をより不動のものにするため「荊州奪還による領土拡大」

3、荊州奪還による荊州人の逃亡阻止

こんな感じでしょうかね(^^;;

みなさんの意見全部正解
(F901iS/FOMA)
20 寿君
>>19
 特に3,は劉備軍の主力がそうだから、切実な気がしますね。
 最初士気が高かったのは、「故郷奪回」の気分が高かったからでしょうか?。素人考えですいません(汗)
(P901iS/FOMA)
21 巫俊(ふしゅん)
当時の劉備軍は演義のように70万の大軍ではなかったでしょうから、仮に四分の一を喪失したとしても、一万人くらいが死ぬか投降したんじゃないでしょうか?

もっとも劉備軍が何万だったか存じないんですけど。
(PC)
22 寿君
>>21
 魏書文帝紀の裴松之注「魏書」の222年2月8日の孫権からの上書には
「劉備の支党四万人と馬二、三千頭がシ帰を出ました。出かけて行って掃討いたし、勝利を得て奉公を示したいと存じます」
 とあるので、四万なのではないでしょうか?。

 でも呉書では蜀軍の死者が八万人になってるのが、おもしろいところです(水増し?誇張?・苦笑)
(P901iS/FOMA)
23 赤龍
ちなみに、呉軍の方は陸遜伝によると5万人だったようです。
同じく陸遜伝には、死者数万人。呉主伝には、斬首したり投降してきたもの数万人。となってます。8万人というのはどこの記述でしたか?
で、8万人というと激しい水増しですが、戦果の水増し報告・発表はほとんど常識といってもいいほどのものです(笑)他にも、戦争前は自軍の兵を誇大に言いふらす(敵を威嚇したりするため)。戦後は逆に自軍を実際より少なかった事にし、敵が大軍だったことにする(寡兵で大軍を破ったほうが手柄になりますから)なんていうこともおきたりします。
ひどい例だと、自軍の数を実数より多く報告し、その分の物資・兵糧を支給させ、差分を横領するなんてこともあったりします。
こんな感じで結構あてにならない数字も多かったりすることもあります。
(PC)
24 赤龍
>>>407
蜀軍の将の戦死者については、馬良の他に、馮習、張南、傅ユウ、程畿、沙摩柯などがあげられます。以外なとこでは王甫。彼は演義だと関羽と同じ時期に死にますが、実際は夷陵の戦いに従軍して死んだようです。
他に誰かいましたっけ?
(PC)
25 じた
四万ッ(笑)だったら蜀の天下統一の夢が完全に潰えましたね↓↓四万を撃破した呉軍の兵力はどんぐらいだったんでしょうか?
(W31K/au)
26 寿君
>>23           いや、確か呉書の中のどっかで見た記憶があるんですよ。
 蜀軍が4万なのを知ってたから、「あれっ?」と不審に思ったもんで、よく覚えてたんですが…勘違いだったかなあ…。
 今、呉書見なおしたけど、やっぱりない…。あれぇ?。すいませんm(__)m

 それから、赤龍さん、私だって記録が誇張したもんになる事ぐらい判ります…。そんなに言わなくてもいいじゃありませんか?。
(P901iS/FOMA)
27 赤龍
>>26
ただ私は、他の数字の誇張の例を色々紹介してみただけですが。
寿君さんが誇張ということをわかってないなんて、責めてるつもりもありませんし、どこにもそんなこと書いてませんよ。
ここは寿君さんお一人でなく、多くの人が見て参加する討論場。そのため、その他の色々な例を参考に挙げてみたつもりですが、それを寿君さんお一人が、そんなこと言われなくてもわかってると機嫌を損ねられても…。
とりあえず、私の文章が下手で機嫌を損ねられた事にはお詫びしておきます。
(PC)
28 赤龍
>>25
呉軍の兵力については一応>>23で紹介してますよ。
(PC)
29 天草
>>26
寿君サン>討論場と言っても、一対一の討論ではないのですから、あまり肩肘張って文字を深読みしなくても良いと思いますよ。
赤龍サンの仰るとおり、書き込みを第三者の目から見ても、悪意は全く感じられませんし…。

>>24の話題は気になりますね。確かにどの戦で誰が死んだのか?これの一覧なんてあったら面白そう。
戦死率ってあまり高くない気がしますが、この戦いではかなりの犠牲者が出てるんですね。
蜀にとっては文字通り痛い敗戦だったわけですよね。
(PC)
30 寿君
 確かにそうですね…。要らぬ事を申して大変失礼しました。

 どうか気になさらないでくださいませm(__)m
(P901iS/FOMA)
31 不知火
皆様初めまして!!
いつも見させていただいてましたが以後発言もしようと思います。
大した知識は無いですができる限り発言いたします。

死者では無いですが杜路,劉寧は降伏してますね。
これだけの将兵を失ったのだから相当痛い敗戦だったょうですな
(EZ)
32 赤龍
不知火さん、はじめまして。
さて、降服組としては、忘れてはいけないのが帰路をふさがれ、魏に降った黄権ですね。
ホウ統の弟ホウ林もこの時黄権と共に魏に降っています。
(PC)
33 アカギ
はじめまして! 皆さんの知識と情熱に舌をペロペロ巻きつつ楽しく拝見さしていただきましたっ! そこで質問したいんですが黄権がギに降り、ショクでは軍法に従って黄権の家族を処刑しようと劉備に許可を求めたけど、劉備は「罪は彼の注意を聞かなかったわしにあり、その必要はない」と、黄権の家族を厚遇した

また黄権は曹ヒに「降伏したからにはわしの為に力を尽くせよ」と言われたのに、「私はやむを得ずギに降伏したので心はショクにあるので」と平然と言った

また「黄権の家族が処刑された」という噂が流れたが彼は劉備を信じてたので喪には服さなかった

という文を昔に読んであまり劉備好きではなかったのに感動してしまったのを、よく覚えているのですが……
これは本当の話でしょうか??それとも劉備びいきの演義か何かの創作なんでしょうか??
(W21CA/au)
34 アカギ
すいません
(W21CA/au)
35 アカギ
すいません! 人物辞典がある事に今気づき黄権の覧に詳細が載っていました(>_<) 愚問でした ごめんなさいっm(_ _)m
(W21CA/au)
36 寿君
 蜀書では陸遜(陸議)・李異・劉阿が巫・シ帰に駐屯してて、これを蜀軍が攻め破って、劉備はシ帰に進駐したとあります。
 よく三国志関連の小説や解説本の一部には、陸遜はわざと退いて蜀軍の陣が長く伸びきるようにしたみたいな書かれ方してますが、実際はどうなんでしょうか?。
 単に敗れて退いたのか、シ帰では守りに適さないから戦線を下げたんでしょうか?。
 呉書では劉備がシ帰まで進出してから、陸遜らが迎撃に出たみたいな書かれ方をしてますが…。
 どっちなんでしょう?。
(P901iS/FOMA)
37 れい
初めまして。早速ですが私見をのべさせていただきたいと思います。
諸兄が言われるとおり天下三分、荊州が故郷の人士が多かったことは私もそう思います。さらに私見を加えると劉備の性格じゃないでしょうか?彼は元来自分の考えを表に出さないように思います。根本の考え方が「自分がやるよりマシ」という曹操の対極にあったと思います。孔明やホウ統が仕えたのも他の国では将士が揃っていて自分が思うような国家経営像や軍略が実行できないからだと思います。兄がいる呉や大国の魏から仕官の誘いは必ずあったはずなのにわざわざ劉備に仕えたのは長年暖めた自分の考えを表現できる場所を求めていたのでしょう。
で、その劉備が荊州に攻め込むと言ったことは彼らにとって一大事であったと思いますが普段物静かな人が公言するのは大変に固い決意がいるはずです。その固い決意を崩せなかったことが一因にあると思います。
(N900i/FOMA)
38 巫俊(ふしゅん)
>>37
そして敗戦で、呉蜀抗争はトーン落ちということですね。
負けてしまっては、荊州人士たちも、益州に地盤を移すことに納得するしかなかったでしょう。
呉に降伏するタイミングを失ったから、故郷にかえっても、もう自分の土地はないだろうし。
敵国在住の親族が、自分の土地財産も相続してしまったんじゃないでしょうか?
太平洋戦争の事例ですが、戦後故郷に帰っても老母はすでに亡く、兄弟や兄嫁が自分の家を相続してしまっていて、今更田舎の家に帰っても厄介者だから帰郷もできない...という悲しい境遇の人がたくさんいたそうです。
それと同じかも。
(PC)
39 弓腰姫
みなさん初めまして。
私も論議の場に加えてください。
さっそく私の考えを言わせてもらいますが、夷陵の戦いは建前は弔い合戦でその裏には荊州奪還が目的だったというのは合ってる気がします。
孔明の天下三分の計の構想の中にはまず益、荊の2州を持ってするという戦略があったはずです。
話は少しそれますが、夷陵の戦いの前に、これは私の意見なのですが、孔明は益州から北進し漢中を魏から奪い、そのまま北進し、関羽は荊州から北進し2方向からの圧力と呉のガッピへの3つの圧力で雍、涼の2州を奪い、三国の形勢を拮抗させた天下三分を狙っていたのではないのかと私は思います。
もしそれが成功していれば荊州は呉に譲渡していたかもしれません。
しかし、同盟国である呉の裏切りと関羽の死が戦略を大きく狂わせ、1から構築しなおす結果になった。
任侠かたぎの劉備は復讐を決意した。
ここから私のもっとも言いたいところなのですが、戦略の1からの構築になったのですから、やはり荊州を奪還し戦略の足掛かりにする必要があります。しかし先の戦で蜀の国力は疲弊していたはずで、もちろん孔明は劉備に復讐を止めるように言うも義弟を殺されたのですから止められるはずがありません。
それならと孔明はその復讐心を逆に利用(例えば軍全体の士気につながる)して荊州奪還を企てたのではないのでしょうか?
大義名分は立ってるのですからそれに沿って戦略を構築しているようですし、ある程度の勝算はあったのだと思います。
荊州には形勢観傍をきめこんでた豪族や少数民族もいたと思いますし。
関羽を慕っていた者たちもいたはずです。
ただやはりこの戦は賭けの要素も大きい気もします。賭けも戦略のうち。だったのかもしれませんね(((^_^;)
(P902iS/FOMA)
40
弔い合戦ってのは味方の士気があがるものですから、戦術という視点では評価出来ますね。戦略的には今回の場合どうかと思いますけど。
(P902i/FOMA)
41 弓腰姫
夷陵の戦いだけでなく、決戦前後も要分析の必要がある気がします。
しかし博識なみなさんのことですからこのサイトで過去に分析されてるかもしれませんね…
(P902iS/FOMA)
42 天草
>>41
どうも!はじめまして☆

たぶんされてないと思いますよ。

このスレや弓腰姫サンに関わらず、既出かどうかにあまりとらわれる必要はないと思います。
スレを立てる時は注意してもらいたいですが、あまりそれを意識しすぎると、発言しにくくなりますからね。

また以前から参加されている方も、すでに振り返るのが困難なデータの量になってますから、この手の注意をする際は、広い心で対応してもらいたいと願います。
かくいう私でさえも、どんな話がどこで出されていたか?かなり前から全然分かってませんし(汗)
(PC)
43 マメ
皆さんはじめまして、こんにちは。
いつも拝見させてもらっていましたが書き込みさせてもらうのは初めてです。
皆さんの知識をお借りしたいのでよろしくお願いします。
早速質問なのですが夷陵の戦いでは蜀軍が大敗したそうですが初めの方は蜀軍が優勢に戦いを進めていたんですよね。
そこで気になったのですが諸戦で劣勢だった(最初から負けたように見せて退き蜀軍の疲弊を待つ計略だった?)呉軍が受けた損害というのはいったいどのくらいだったんでしょうか?
夷陵の戦いが終わってすぐに曹丕の率いる魏軍の来襲を退けたぐらいですからあまり損害がなかったのですかね?
なにぶん三国志入門したてなものでこんな簡単なこともわからないのかとお叱りをうけてしまいそうですが解答よろしくお願いします。
それから夷陵の戦いに関する質問はこのスレでよかったですか?
間違えていたらすいません。
(V803T)
44 朱家
マメさん、はじめまして。

曖昧な返答になりますが、孫権は劉備と戦う気がなく、和平を求めてます。若干の準備不足による被害と思って、間違いではないと思いますよ。
(PC)
45 マメ
朱家さんはじめまして、解答ありがとうございます。
そうだったんですか、呉軍にはほとんど損害がなかったんですね、孫権が和平に動いていたことも知れてすごく参考になりました。
しかし蜀軍としては本当に無謀な戦をしてしまったのかもしれませんね。
夷陵の戦いには劉備の私怨だけでなく様々な戦略構想(劉備陣営に荊州人士が多かったことや荊州奪還により再び三国鼎立への足がかりにするためだったのでしょうか?)などもあったと思いますが結局国力を疲弊させてしまっただけに終わってしまったような気がします。
それから皆さんにまた質問なのですが夷陵の戦いが始まったのは関羽が殺されてからわりとすぐだったのでしょうか?
開戦時期など知っていれば教えてもらいたいです。
(V803T)
46 マメ
質問ばかりして迷惑でしたよね、皆さん失礼しました
これからは自分でも調べるようにします
本当にごめんなさい
(V803T)
47 ストラップ
>>45
関羽の死亡→219年12月
劉備帝位に→221年4月

征呉の兵は劉備が帝位についた後ですね。

劉備の大敗は222年閏6月。魏が呉を攻めるのが、同年9月です。
(F2102V/FOMA)
48 マメ
ストラップさん〉遅れてすいません、詳しい解答ありがとうございます。
調べてみるとそうでした迷惑かけてすいません。
これからは自分でもできる限り調べるようにします。
もう一つ皆さんに質問したいのですが夷陵の戦いで蜀軍は水軍を使ったという記述などはあるのでしょうか?
それとも蜀軍は戦闘用に使える充分な水軍がなくあくまでも物資などの移送用だけに水軍を使っていただけなのでしょうか?
これだけはどうしてもわからなかったので解答お願いします。
(V803T)
49 弓腰姫
マメさんはじめまして。
蜀軍は船を物資の輸送のみに使ったと思われます。
当時、呉の水軍は三国で最強でしたから、もともと原野戦を得意としていた蜀軍があえて水上の戦をするとは考えられません。

蜀軍は白帝から出撃し長江に沿って侵攻しましたから拠点を制圧して物資を乗せた船を拠点に向かわせる。といった感じだったのではないでしょうか。

余計かもしれませんが、私の見解を。
一方の呉軍は撤退を繰り返し、蜀軍を呉国内に深く引きづりこませ、挟み込む策をとっていましたので、ここから考えられることは、呉軍は蜀軍に真っ向から当たると勝算はないと判断したのではないでしょうか。
呉軍は半年かけて夷陵まで撤退して反抗に転じていますので、撤退の間は自国の領土を侵されているのに策のために撤退するしかなかった呉の将軍たちはそれは屈辱のなにものでもなかったのではないでしょうか。
策の漏洩防止と完全遂行のために策の真意を陸遜は全軍には伝えていなかったでしょう。

もし蜀軍が夷陵手前で撤退していたら呉軍は追撃に転じて、前もって長江の地形を利用して(蜀軍が)伏兵を埋伏し、撤退と見せかけた挟み打ちの策にでていれば、もしかしたら今頃、蜀軍が大勝し荊州を奪っていたかもしれませんね。

久しぶりに討論場に来たので討論がさらに進んでいるのを見てびっくりしました。
(P902iS/FOMA)
50 マメ
腰弓姫さん〉遅れてすいません、詳しい解説ありがとうございます、すごくわかりやすいです。
そうですか、やはり最強の水軍に蜀軍が水軍を真っ向から戦闘には使えませんよね。
物資の移送などにだけしか使えなかったのもわかりました。
陸遜の戦略というのも考えればすごく奥深いなと思いました。
皆さんすいません、また質問で申し訳ないのですが陸遜を軍事司令官に任命って相当な抜擢だったのではないですか?
彼は夷陵の戦いにつくまではどんな官職に就いていたのでしょう?
わかる方がいたら教えていただけませんか?
度々申し訳ありません。
(V803T)
51 赤龍
遅くなりましたが、陸遜伝にみえる陸遜の孫権への上疏に「最初、敵は水陸両路から攻めてくるのではないかとと警戒していましたが、船を捨てて徒歩になり、処々に陣営を設けています」とあり、ここからも移動には船が用いられていたものの、劉備は陸戦主体で戦に臨もうとしていたことが推測できます。
さて、夷陵以前の陸遜の官職ですが、荊州侵攻の直前、病の呂蒙の後任ということで偏将軍右部督となり、対荊州方面の司令官に。
荊州侵攻後は宜都郡の太守となり、撫辺将軍、華亭侯に。その後も荊州の蜀の残党、親蜀派の豪族達の討伐に転戦し荊州の平定に活躍。右護軍、鎮西将軍、婁侯に昇進。これが夷陵直全の状態です。
呉郡の名族出身で、孫策の娘を妻にと、家柄は申し分なし。地位的にも元々荊州方面の要職にあり、世間ではなぜか若僧というイメージがあるものの、実際はこのころ四十前後のおっさん(笑)年齢的にも問題無し。されに、夷陵の戦いの舞台は陸遜が太守をしていた宜都郡の中。
つまり、演義のイメージ程の大抜擢ではなく、わりと妥当な任用だったのではないでしょうか?あえていえば、さかのぼって呂蒙の後任に推挙されたことが大抜擢と言えるかもしれません。
(PC)
52 マメ
赤龍さん〉詳しい解答をしていただいてありがとうございます。
陸遜は思ったより大抜擢というわけではなかったのですね。
小説などを読んでいてももっと若いイメージや実戦経験があまり豊富ではないという印象がありましたのでまさか40代だったとは驚きました。
官職についても詳しく教えていただいてすごくわかりやすかったです。
ありがとうございました。
皆さんまた何かあればよろしくお願いします。
(V803T)
53 朱家
南郡太守の諸葛瑾が順当だと思うけど、孫権に用いる気があったか疑問ですね。
あとは、呂蒙が後継指名した朱然、他は動けそうにないから、朱然か陸遜かの二択のような気がする。
陳寿評「威名を知られてなかった」とあり、その意味では抜擢だけど、威名というと、孫権以外で誰だろう?(笑)
(PC)
54 マメ改め張松
いきなりですが名前を変更して今後は張松と名乗らせていただきます。皆さん改めてよろしくお願いします。
朱家さんはじめまして、朱然が後継指名されていたんですか?
自分は朱然と言う武将について詳しく知らなくて勝手なイメージであまり実力はなかったのだとずっと思ってました。
歴史人物をイメージで決め付けては駄目ですよね。
これからはちゃんと勉強するようにします。
ちなみに朱然という武将が呂蒙に後継指名されるということにはかなりの功績があったということですか?
夷陵の戦いでの彼の活躍も知りたいです。
皆さんよろしければまた知識をお貸しください。
忙しい中失礼します。
(V803T)
55 弓腰姫
たしか朱然は藩ショウと共に関羽を生け捕りにするという大功を立ててますよね

夷陵の戦いでは別働隊を率いて劉備軍の退路を遮断、さんざんに打ち破ったというのをのを聞いたことがあります。

孫権とは若いころは共に机を並べた仲らしく、陸遜の後の五代目の大都督に就任していますね。

私なんかよりももっと詳しい方々がいると思うんですが、私が朱然に関して知ってることはこれだけです。
(P902iS/FOMA)
56 マメ改め張松
腰弓姫さん〉返事遅くなって、すいません、解答ありがとうございます。
朱然が大都督に就任したことも始めて知りました。
きっと孫権の信頼も人一倍篤かったのでしょうね。
(V803T)
57 三蔵帽子
劉封、孟達って可哀想な気がします。漢中、夷リョウに戦力の殆どを投入しているので援軍を送る余力なんて無かったはずですよね…

わずかな兵力を率いて死にに行けと言われていけますか?(笑)
(F902iS/FOMA)
58 しす
>>57
夷陵の戦いは劉封、孟達が援軍を依頼された三年後の話ですよ。
また劉封、孟達が援軍要請を断った理由は上庸を攻略したばかりであったからで、戦力を割かれていたからではありません。
というか兵の数だけを考えるならば援軍を送るに足る兵力を擁していたと考えるのが自然かと思われますが。
まぁ、いずれにせよ劉封、孟達に関しては夷陵スレで語るネタではないとは思いますが。
(PC)
59 三蔵帽子
しす殿》失礼しました。
勘違いしておりました。夷リョウ戦は関羽の敵討ち戦でしたね…

前言もとい、樊城戦の間違いです。m(_三_)m
(F902iS/FOMA)
60 ストラップ
馮習age。
>>>440
(F2102V/FOMA)
61 赤龍
馮習スレの問題とも大きく関わるのですが、この時の蜀軍の編成がいまいちわかりません。
呉軍の方は、孫権は本拠を動かず、陸遜が大都督、仮節として現地で諸将を指揮する立場と、明瞭になっています。
一方の蜀軍、劉備自身が出陣している以上、当然これが最も上に位置するはずです。問題は馮習。季漢輔臣賛では「領軍に任命され諸軍を指揮した」とされ、陸遜伝では「大督」だったと。これがどのくらいの権限があり、どの程度の軍を指揮していたのか?領軍という地位自体は呉班もついているようですし。
(PC)
62 赤龍
間違えました。>>60でストラップさんがのせてるのは、馮習スレじゃなくて、>>440は季漢輔臣賛のスレでしたね。
(PC)
63 ストラップ
馮習は赤龍さんが>>5で言われている荊州人達の、リーダーだったんでしょうか?

楊戯は大敗北の責任を「休元軽寇、損時致害(--中略--)患生一人、至於弘大」と、季漢輔臣賛で馮習一人のものとしている様ですし(>>>440-16)、それなりの立場でなければならないと思います。呉書十三では季漢輔臣賛にも出てくる輔匡(益州が平定されると、江陽太守になった人)よりも上位の役である事が書かれていますし。

ただ、「先主東征呉、習為領軍、統諸軍」とはありますが、>>51にも有ります様に、劉備達は連携の悪い形で進軍した形がありますし、その内の一つのグループなのかも知れませんね。

呉書十三を見ていて驚いたのは、廖淳>>>299の名がある事。
馮習、張南、輔匡、趙融と来て、傅ユウの前に「別督」としてその名がありますね。
蜀書十五に、
「会先主東征、遇於シ帰」
と有りますが、いきなり任官されているのですね。
(PC)
64 赤龍
>>>168で夷陵の戦い関連が盛り上がってましたので。
(PC)
65 寿君
色々再確認した事があるのですが、江陵から零陵にかけての旧劉備(関羽)領には、劉備が夷陵で勝てば、下手すると一変に勢力地図が塗り変わる危険性が孕んでいたんですね。
諏訪さんが劉備のスレで叶兄弟さんにレスされてましたが、まさに荊州西部は火薬庫状態。関羽の配下だった人(零陵の守将)が武陵蛮の地に行って、頑強に抵抗して、ついには自決。それ聞いた劉備が哀悼を捧げたと言う話をむじんさんちで目にしました。

もしかして劉備の東征は武陵から零陵にかけての残党勢力を支援(と言えばおかしいですが)して、西部三郡でも奪回…。いや江陵抜かれたら、次は武昌の孫権ですから、戦略的な点での勝算のメドはあったが、残念ながら戦術的な誤算が大敗になってしまったんでしょうね。
調べてみるもんです…。
(P905i/FOMA)
66 赤龍
>>65
馬良伝には、馬良が武陵蛮の帰順工作に派遣され、その工作自体は成功していたことが書かれてますね。
歩シツ伝にも、劉備敗北後も荊州南部の反抗は続いたと書かれてますし、明らかに寿君さんが考えられてるような意図はあったと、私も思ってます。

逆に呉の方もこの時期、南蛮の反乱を後方支援し、蜀を牽制しようとしていますし、夷陵の一局面だけをめぐって両国が争っていたわけじゃあないことがわかります。
(PC)
67 寿君
この戦いで、黄権は劉備にシ帰で一旦止まり、自分に先鋒を任せるように進言しますよね?。
以前は陸遜の誘導も判ったもんじゃないと疑念を抱いていたのですが、やはり黄権は陸遜の三峡からの撤退の仕方に不信感を覚えたから、もしもの事態に備えるように献策したのではと思うようになりました。
とは言え、夷陵は益州から荊州へ続く回廊の出口の要衝(ここから臨阻の方へも道が延びてる)ですから、速やかに奪取すべき必要性もある。
だが、対陣が長引けば、魏が動くかも知れない。

様々なファクターが劉備の頭を悩ました為に、夷陵への進出までタイムロスが生じて、呉軍が(おそらく)所定の守備位置だろう夷陵と夷道のラインに万全で待ち受ける前線に行軍体形のまま、進出してしまったのでしょうかね?。
それか>>65-66のように、武陵蛮等の親蜀勢力との兼ね合いからか…早期に武陵からの異民族の援軍を合流させねば、兵力に不安があったか?。これが気になります。
また、武陵からの援軍がどれぐらいかは判りませんが、この段階での参戦となると、戦線における本隊との連携が上手く行ったようには思えません。
そこらも、敗因に繋がったような気がしてなりません。
(P905i/FOMA)
68 寿君
すいません。劉備が呉班らを囮にして先行させたのって、まだシ帰に蜀本隊が居る時でしたっけ?。
確か、陸遜が伏兵を見破ると蜀軍は山あいから出てきたと言うのは、シ帰から夷陵まで出てきたと言う事を指すのでしょうか?。
てっきり、夷陵の対陣状態の時に、劉備が伏兵作戦を仕掛けたのだと思っていました。
もしそうだと、>>67の書き込みが意味が違ってきてしまいます。
確か、呉班囮の伏兵作戦って、夷陵に出てきてからですよね?。
(P905i/FOMA)
69 諏訪
>>67-68
呉班の囮作戦がいつ行われたのか、正史の記述からだけでは、私にはよくわかりません。
夷陵の戦いの期間は一年におよんでおり、その間局地的な戦闘がいろいろあったでしょうから、そのうちのひとつだと思います。

黄権の進言も、いつあったのかはっきりせず、劉備がシ帰に駐屯していた頃だとは限らないのでは?
私は、荊州に侵攻する前ではないかという気がします。
(W51S/au)
70 諏訪
開戦初期の呉軍の後退、はたしてこれは、あらかじめ立てていた作戦だったのか?

呉軍が戦線を後退させた理由が、仮に劣勢だったからだとしても、結果的に蜀軍を破ったので、後から、実は戦略的撤退だったということにした。そういう可能性もありますよね。
ですから、どうとでも考えられると思います。
(W51S/au)
71 寿君
諏訪さんもそう思われますか…やっぱりなぁ…。
私も陸遜伝や先主伝とかを当たっては見たんですが、「わからんなぁ、これは…」と首を捻る事があります。

まず判っている事は、蜀軍の攻勢が弱まるのを待って呉軍が反撃し、蜀軍が大崩壊して大敗した事だけって感じでしょうか?。


うーん、確かにどうとでも考えられますね…。

いや、参考になりました。ありがとうございます。
また、他のご意見もありましたら、何方かお聞かせください。お願いします。
(P905i/FOMA)
72 諏訪
呉軍は結果的に大勝していますが、蜀軍に夷陵まで侵攻を許したことで、武陵蛮などの反乱がおこり、蜀軍撤退後も鎮圧に奔走することになります。
陸遜の上疏に「この地(夷陵)を失えば、単に一郡の地を失ったというに止まらず、荊州全体が心配になります」とあります。
これは、後がない状況に追い込まれているともいえますし、その後心配いらないと述べていることも、孫権を安心させるためと捉えることもできます。
陸遜としては、可能であるならば、巫・シ帰で蜀軍を食い止めたかったのではないでしょうか。
(W51S/au)
73 諏訪
とはいうものの、群臣の多くが反対していますし、大敗したことは事実ですから、蜀にとっても厳しい状況だったのでしょう。
あくまで、蜀にもチャンスはあったという程度だと思います。
(W51S/au)
74 朱家
劉璋を益州牧として、国境を守備させてますし、夷陵が守備しやすい土地でもないし、引き込む策略とは考えてないですね。

黄権は単純に、どうしても補給が延びてしまうし、劉備が最前線に出向く事を、心配したのだと思います。逆に劉備は、魏がいるから長期戦を想定しておらず、短期決戦のために最前線へ、って感じだと考えます。

この戦いは、劉備に強烈な足枷が多くあるので、この状況では、たとえ曹操であっても、劉備と同じ事しかできないと思います(夷陵で対峙した後に限定)
劉備の勢いを止めた時点で、陸遜の勝利じゃないですかね。あとは、長期戦ができてしまった、曹丕が動かなかった事は、ファインプレーかも(笑)
(PC)
75 寿君
あぐっ!全部、朱家さんに書かれてしまいました。初めてお話させていただきます。寿君です。

劉備としては、呉班による誘引伏兵作戦が破れた時に、次の具体的な作戦を打てなかったのが痛かったと思います。
それにしても、この伏兵作戦、陸遜以外の諸将が攻撃を促した事から考えて、もし陸遜じゃなかったら…考えてしまいます。
また、逆にさほど巧妙な伏兵(まあ陸遜伝の書き方のニュアンスにもよりますが)とは思えないのに、諸将がこれだけ出戦を希望したのを見ると、ここまでの戦闘が本当に屈辱感ある敗走になって、ようやく夷陵で落ち着けたのではとも思います。
陸遜がギリギリで蜀軍の進撃を受け止めて、我慢に我慢して敵が弛緩した時に反撃した鮮やかな逆転勝利の典型だったんでしょうね。
しかし、いくら持久戦でも、あの崩れ方は劉備並びにフウ習の軍統率の粗相を否定できないと思います。
全軍の統括は、劉備は皇帝なので総司令・フウ習の役目になるんでしょうか?。
確かどこかのスレで、フウ習の夷陵の件に触れてたと思いましたが…。
(P905i/FOMA)
76 寿君
追記
あっ、でも勝利に驕って油断すると言うケースはいくらでもありますね。曹操でも宛城では油断して大敗しましたしね…。

それにしても、素朴な疑問として、劉備は荊州の地盤を奪取した暁には、一体誰を督荊州に据えるつもりだったのでしょうね。
魏延は漢中だし、後に諸葛亮と共に後事を託す李厳ぐらいしか思い浮かばないのですが…。
まあ、演義的な感覚なら、色々いますが。
もし勝てば、フウ習あたりを大抜擢するつもりだったのかしら…?。
(P905i/FOMA)
77 朱家
えっ!初めてでした?よろしくお願いします(笑)

>>76
おそらく、劉備が治め、馬良はいるから、劉巴、李厳あたりを呼ぶかな?死んでるかもしれないが、いやし系として、簡雍も呼ぶはず(笑)、成都は劉禅と、孔明でしょうね。

>>75
最初の反撃は退けてますから、微妙な感じがします。演義のような遠大な火計ではないし、基本は堅いが、一つでも潰れると駄目な陣だったのか、たった一つの陣が致命的な弱点となる陣だったのか、分からないけど、これらは、劉備が後陣にいれば、勝ち負けは別として、立て直せると思いますからね。
どうしても推測ばかりになるけど、孫桓が先走って失敗したけど、土地的にも、劉備には重荷となった気がします。
(PC)
78 寿君
最近の桶狭間の戦いに関する説に関して、信長は今川勢に突撃を仕掛けたのも、本陣強襲を狙ってと言うより、とりあえず敵の有力部隊を撃破して戦況を好転させようと言う目論見だったのではとの説も聞きます。
推測になってしまうけど、陸遜としても何度か攻撃をかけて撃退されながら、攻撃の間隔を調整する事で蜀軍が陣形を乱す間隙を作ったのではないでしょうか?。
大敗に関しても、もしかしたら「小さな綻びが予想外の大崩壊に繋がった」とも言えなくないと思います。
だからこそ、陸遜の名を天下に鳴り響かせる事になる大勝利になったと思います。

ところで、「わざと負けて蜀軍を深く誘い込む」って展開は陳舜臣の「秘本三国志」が初見だった気がします。
(P905i/FOMA)
79 諏訪
>>78
桶狭間の戦いについて、『信長公記』を読んでの私の感想は、信長えらく無能だなぁということと、偶然に偶然が重なって今川軍が大敗した、戦争って怖いなぁということですね。

夷陵の戦いでの詳しい戦況はわかりませんが、戦争というのは万全の準備をしているつもりでも、予想外の展開になることがある、だからこそ、むやみに戦争をするものではないし、戦わずに勝つことが大事なんですね。

だからといって、夷陵の戦いはするべきではなかったと考えているわけではありませんが。
(W51S/au)
80 寿君
劉備は持久戦になる可能性に対する準備不足が考えられます。
武陵蛮を煽動している訳だから、得意のゲリラ戦で粘り強く戦う事も出来たはず。
翌年には死去しますから、焦りがあったのではないでしょうか?。
敗戦のショックでと言うよりはそんな感じもしますし、曹操にしても漢中戦あたりは、冴えが感じられないので、年齢的な判断力の衰えも感じなくはありません。
ただ、蜀軍の兵力が実際どれぐらいだったかも不明瞭なのも困ります。
4万と言うのが先鋒だけなのか?総兵力なのか?武陵蛮からの援兵がどれぐらいだったのかも不明。
それに、武陵蛮援兵の規模によっては、前線に置いて規律正しく動かせたかも気になります。


まあ、判らないから仕方ないけど(*_*)
(P905i/FOMA)
81 諏訪
>>80
劉備がゲリラ戦が得意だったかどうかはともかく、敵領への侵攻戦ですし、夷陵・夷道やその先の江陵・公安の奪取が目的であるならば、ゲリラ戦なんてやりようがなかったのでは?
魏の動向も気になりますし、長期戦にはしたくなかったのだと思いますよ。

それと、武陵蛮が呼応したといっても、劉備軍に合流したわけではなく、それぞれ各地で反乱を起こしていたのではないでしょうか。
(W51S/au)
82 寿君
あらっ?
申し訳ないです。完全な記憶違いでした。先主伝と馬良伝見たら、蜀漢に帰属してきただけみたいですね。
沙摩柯も単なる異民族の武将なだけとあるし…。

一体、どこで記憶違いしたんでしょう。

と言う事は夷陵を突破するだけの話だった(いやしなければならない)訳ですね。
呉書ばっかり見てました(汗)

申し訳ない出直してきます。(´O`)
(P905i/FOMA)