1 しす

関羽綜合スレ(関帝 その2)

>>>99の続きです。
本スレは神としての関羽、つまりは関帝(関帝聖君)について語るスレでしたが、武将としての関羽にも言及が及びましたので、関羽スレとして引き続きお願いします。
もちろん三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君についても引き続きこちらでお願いします。
また前スレでは関公の侍神、周倉、関平にも及んでいますので合わせてどうぞ。
(PC)
2 しす
あ、>>1が無駄に長いのは検索を容易にするためなんで気にしないでください。

関連スレのレスアンカーつけ忘れてました。
>>>108 関羽の呪い…?
>>>197 五虎将軍+魏延
>>>293 劉備と関羽の関係…
>>>317 【演義】正史以外の話【説話】
>>>327 関羽と趙雲
あとは直接関係はないけど…
>>>145 びぼうについて ←本当は麋芳ですね。
>>>297 「単刀赴会」真の主役、魯粛スレ!
>>>299 三国志のNO.1?長命リョウ化…
>>>303 呂蒙 子明について
>>>319 名誉回復!于禁スレ
たぶん他にもあるでしょうけど…

あと>>>99-100
できれば100レス目は新スレ立ててからそちらに誘導した方が理想的だと思います。
その方が双方行き来しやすいですから。
(PC)
3 DJ SEIETSU
うむ…皆さん凄い…
本当に将の評価とは何を基準にするかが大きく関わりますよね。
何故に忠誠神武霊祐仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊贊宣徳関聖大帝(僕も書きたかった…ハハ…)と呼ばれたほど尊大な存在となったか…
関公が敗北した理由を無能だとする論は、利を重視し、非常に頭のキレたクレバーな考えだと思いますが、時として論者の格をも落としかねる非情な見解ともとれると私は感じます。
関公は襄陽、樊城攻撃を実に公らしく実行し敗れた…そこを評価とする人間も多くいると感じます。
世の中、頭のキレる人間ばかりではなく、情や義が利にとって変わる事もあるのではないでしょうか?
関公派かそうでないか?という決である様にも感じてしまいましたが、三国志の中で、世界中で尊ばれる神となった人間という意味では評価されて良い人生だったと感じますよ。敗れたとしてもです。
(W31SA/au)
4 無問題
荊州をまかされてから少々傲慢になっちゃったのが自分の中でマイナスになってますね…。でもけして無能というイメージはないですね。少々性格が項羽ににてるなと思いますが…
(EZ)
5 赤龍
しすさん、DJ SEIETSUさんの影響を受け、ブログ「博物館集解」の方に関帝に関する称号・神号の類を色々紹介してみました。まだ誰もネタにしてなかったんで(笑)
(PC)
6 元歎
>呂蒙にまんまと騙された
それは確かです。言いたかったのは、初めから油断していたわけではないということです。

>頭で呂蒙以上を求めるのは酷ですか?
呂蒙は、周瑜や魯粛とは違い、政治などには関与していません。ということは、呂蒙は関羽と同じタイプ。呂蒙は勉強によって戦略の才を身につけたのではなく、もともと戦略の才はあったと思います。しかし自分の考えを文書として総大将(周瑜など)に提出することは出来ませんでした(字を知らないため。この時は仕方なく口頭でだったと思います)。しかし、総大将となるためには、文書ぐらい書けないといけない。そこで発奮、(字を覚えたり、史書などを読んでどう表現するかを)勉強し、その勤勉さは魯粛を感嘆させるほどになります。ここで注意して欲しいのは、頭が良くなったなどというわけではないということ(文書を自分で自由に書け、すらすらと話せるようになっただけ)。呂蒙は、魯粛を感嘆させたことから頭が良いと思われがちですが、それは間違いであると思います。
結局、関羽は呂蒙の計略を見抜けなかっただけです。関羽も、侯音を反乱させたり、盗賊を味方につけたりなど計略は用いています。曹操が侯音の反乱を未然に防げなかったからといって、関羽が曹操より頭が良かったとは言えないことと同じだと思います。

>やはり曹仁を落とせなかったのが引っ掛かります。
ですから、周瑜も一年を費やしています。そして、劉備が漢中王になったのが219年秋。その後関羽は兵を発し、219年のうちに敗北。実際に樊城を攻めていたのはわずか。落とせないのも無理ないでしょう。逆に、もう少しの兵力があれば落とせたということは、周瑜以上といえるのではないでしょうか?(周瑜の時と兵力・地勢などが全然違うので一概には言えないですが…)

朱家さん>裏切りましたな!(笑) もう一度裏切るようにしないと…(笑)

>樊城が落ちそうだったとはいえ、援軍を断られた時点で退いていれば、江陵は防げた
確かにそうですけど、樊城さえ落ちていればあとは勢いで江陵も奪取できたと思います。魏では反乱が相次ぐでしょうし。劉封の守っていた上庸も、たとえ援軍を送ったがために魏に奪われたとしても、やはり勢いで取り返すことはできたと思います(無理かな…勢いがどのくらいになるのかわからない)。何にしろ、樊城を落とすことが何よりも大事であったと思います。
(PC)
7 ストラップ
>>6
この件に関しては、>>>55-25>>>55-32-34>>>145-9>>>及び、145-12-14なども参照の為に書いておきますね。
僕としては、関羽があまりにも調子良く勝ち過ぎた為、援軍の必要を感じられない位感覚が麻痺してたんじゃ無いかと考えています。


関羽が荊州を任された事についてですが、張飛伝に因ると、
「卒伍を善待して、士大夫に驕る」
とありますね。事実、>>>327-4にある様に、黄忠や馬超とは仲が良かった様ではありませんから、実は関羽は嫌われ者だったかも知れませんね。実際、劉封、孟達、麋芳、士仁、潘濬等は関羽のピンチに動きませんでした。
しかし一方劉曄は、蜀自体を、
「将は関羽のみ」
と評価しています。
以上二点から考えますに、「同僚からの嫌われ者」かつ「唯一有能」な関羽が、荊州に行く事になったのではないでしょうか?

尚、関羽を考察する際、どうしても廖立伝での評価を気にするところですが、皆さんこちらはどうお考えですか?
(PC)
8 朱家
DJSEIETSUさんに触発されて、少し感情論を書きたいと思います。
関羽が有能か無能かを論じてるつもりはありません。私が言いたいのは『自分の価値を知らない(忘れた?)』この一点です。関羽派ですが、これだけは痛烈に批判します。関羽が死んで、劉備も壊れますし、降伏を偽った事を残念に思う人もいるでしょうが「少しは価値を知ってたか」と思ってます。つまり劉備と同等の価値(他国ではそれ以上?)を持つ関羽は、死ねない重責を担っているのです。それが功をあせった?(想像ですが)怒りさえ覚えます。相手が曹操であれば、無理してもいいでしょう。曹仁ですよ、親族で重臣とはいえ、立て直しがきく人材と考えてます。元歎さんは、反乱が多発したと見てますが、曹操の才をもってすれば鎮圧は容易く、それに乗じて大規模遠征を行えるほど、本隊に余力はありません。
関羽が死んで蜀はどうなりましたか?結果論ですが、劉備、張飛は死に、国力を大いに傾けました。孔明という奇才により助かったにすぎません。その影響力を何故考えられなかったのか?回避する方法はいくらでもありました。関羽らしく死んだ?絶対に死んではいけない人物だったと考えます。
愛しさも憎さも人一倍と自負しております。
(EZ)
9 青龍
冷静な意見から感情論まで出てますね(^-^)
朱家さん>先ずお詫びしますm(__)m「戦の流れ」自体が論点がズレてましたね。確かに援軍を断られた時に退いていれば歴史自体が変わる可能性がありますよね。それに関して、元歎さん>樊城を落としたとしても、結局関羽はその後捕まるなり戦死すると思いますよ。そうなるなら樊城を落とすことが「何より」大事とは言えませんよね。
曹仁の話しはもはや鼬ごっこですね。私の方が意見としておかしいのは分かるのですが、やはり倒してこそ力の証明だと思うので。あと、兵力とは兵糧絡みのことですか?兵数はそれこそ兵糧が足りないくらいいたのですよね?
呂蒙のことですが、もともと才があったのは頷けます。そうでなければ孫権に目をつけられませんしね。しかし、学んだものが読み書きだけとは考えづらいです。魯粛を感嘆させた場面でそのような事をわざわざ披露したとは思えないからです。囲碁に例えるなら、昔は強くも定石を知らないといった感じだったのではないでしょうか?あと、記述を見るかぎり(あまり調べてませんが)読み書きだけ学んだとは読み取れませんでしたが、何を参考にしてでしょうか?
(D901i/FOMA)
10 青龍
時間が空きましたが続けますm(__)m
DJさん>無能についてですが、私はそのように思ってません。関羽のような叩上げの将で、無能な者が総大将にはなれないでしょう。総大将になるまでは良い武将であったのに、何故総大将としては成功しなかったのか?そこを論じるのに必要な事は「何が悪かったのか?」です。そのため出てくる言葉は悪いものばかりかもしれません。しかし、出てきた意見を完全に否定できないなら、それは事実としての可能性が残ります。それを受け入れる心も時には必要だと思います。
樊城等での「関羽らしく」ですが、正史を「今に残る歴史の事実」と見るなら、「関羽らしく(情や義)」を正史から読み取るのはかなり困難です。おそらく小説や漫画の印象でしかないと思います。
きつい言い方になってしまったかも知れませんが、天下三分計から見る荊州を失った責任や蜀から見る関羽自身を失った責任、それらを合わせた責任は計り知れません。それ故荊州での関羽の振る舞いは批難されるのもしかたがありませんし、軽視も出来ないということです。
(D901i/FOMA)
11 DJ SEIETSU
青龍さん>要約僕の言ってる事の意を説明できる。
ええ、無論、演義の影響は大きいし、漫画やメディアの影響も無論あります。
それでいて【関公らしい戦い】と言っているのです。
僕が【関公らしい戦い】としているのは、正史の内容ではなく、人にどう思われているかという部分です。
僕が何度となく言っているように、正史では、そう受け取れない関公が何故に尊大なのか?
何故に起因となる演義というモノが存在するのか?
正史に記述のない部分が魅力的であったからではないでしょうか?関公は正史とは別の部分で堂々としたものがあったのではないでしょうか?
私は正史の関公を読んだ時、逆にほっとした位だったんですよ。
彼は失敗もすれば、奢りもある。
しかし、正史とは違う評価を多くの人間がした事を【関公らしい戦い】と言ってみました。
何も正史とは違う事をしたとは思ってないですよ?
ただ、人にリスペクトされる…そういう人間ではなかったろうか?と感じると言ったまでなんです。
僕はそう書物を読んでいる訳でもないし、論議は皆さんの足もとにも及ばない。
そんな状況でも、関公なれば、自分の信じるものを語るのではないか?と思考して参加してます。
ここで、素晴らしい論議が交されている事を見てください。
全て関羽雲長ありきだと、僕は感じてます。
(W31SA/au)
12 DJ SEIETSU
補足ですが…僕の論じ方が悪いのですが、僕は一旦文章を切って、情や義の事を書いた意は、関公が正史において情や義にあついとしている訳ではなく、正史の評価とは別に関公をリスペクトする情を持った方も多くいるのでは?という意を込めたつもりです。
そして、悪い意見を認めないとするよりは、悪い意見も理解しているが、僕は揺るがないと見てください。
僕は関公を範としている…
陳寿の評も理解した上です。
そういう意味も含めで僕の論を聞いて頂いていれば、私が豪ニシテ…といった性格である事も理解して頂けると思います。
自分が信ずるものは、そう揺るがないモノでありたい気持ちはわかって欲しいですね(^_^)
(W31SA/au)
13 青龍
少しの間書き込めなくなるので最後に書き込みます。
DJさん>関羽が義の人であることは正史に載っています。ただ、それが樊城の時に絡んだ事が載っていないのです。
「関羽らしさ」とは義や情でないなら何のことですか?悪い意味では確かにたくさんありますが(私達が言っているように)。
「関羽がいかに偉大か」(DJさんの疑問文全般)については、関羽の生涯を通じて判断をすることであり、たった5年(または1年足らず)の事を討論している今では議題がズレてしまいます(もともとはそういうスレでしたが)。なので私がいない間にでも議論してください。また、そのような議論では演義からの意見は貴重ですが、やはり事実を求める上での討論に演義はからの意見は不適切だと思います。
(D901i/FOMA)
14 DJ SEIETSU
青龍さん>僕の書き込み頭から読んでます?始めに論の主軸にいる方と意見がずれます…という意を込めた事僕は言ってますが…
主軸からそれるもの、そして貴方のような方がいない場所とは、僕の様なモノは来るなという事でしょうか?
感情論は論としてとらえられないのですかね?
正しいとするモノ以外は、認めないのでしょうか?
関羽が義の人であると書いてあるなら、樊城で戦った関公は義の人ではないでしょうか?ただ関羽という人間が戦った事、それで関羽らしいと言ったんですよ?何をしたかという事でなく、ただ其処にあって戦う事が関公らしい。貴方には、残念かもしれませんが、正史の内容は悪くても、関羽が好きで、討論場で発言したい。そういう考えの人もいるんですよ?
ここは、
関羽綜合スレですし…出ていって欲しいならスレッドを立ててくださいますよね?
(W31SA/au)
15 DJ SEIETSU
最後に読んで欲しかった…書き込みをあせって読んだから…貴方が消えるって意味がわからなかった…青龍さんすまない…僕も貴方が現れるまで消えます…
(W31SA/au)
16 元歎
…えっと、>>7について。
一応、劉邦と孟達には理由がありますけど、糜芳・士仁・潘濬らが何もしなかったのは関羽に反感をもっていたというだけですからね…。余程の嫌われ者だったのでしょう。でも、口外できる人はいないでしょ…と思ったら、例の愚痴愚痴大魔王(笑)の廖立がいましたな(^^) 『(例によってちくま訳)関侯は身を亡ぼし一人の生存者もなく、上庸は敗北し、いたずらに一地方を失ってしまわれた。これは関羽が剛勇の評判をたのんで、軍の作戦行動の仕方がでたらめで、ただ気の向くままに突進したためであり、それゆえ前後にわたって何度も軍勢を失ったのである』(何度も軍勢を失ったというのが気になりますね。樊城の時の一度だけだと思いますが…。細かく数えたのかな?) まあ、この評は当てにならないと思います。まったくこの愚痴男は…
>「同僚からの嫌われ者」かつ「唯一有能」な関羽が、荊州に行く事になった
なるほど〜。その二つが重なったからということですか。でも、仲が悪かったとは思えない張趙のどちらかは江陵守備のために一時的にでも来るべきだったと思いますね〜。

>>8
>反乱が多発したと見てますが、曹操の才をもってすれば鎮圧は容易く、それに乗じて大規模遠征を行えるほど、本隊に余力はありません。
曹操は、(多分)病気。鎮圧するほどの時間は残されていなかったでしょう。しかも、樊城を落としたとなれば魏は遷都したはず。威信はがた落ちになります。鎮圧は難しい(少なくとも簡単ではない)と思います。そのうちに蜀は、疲弊した兵を休めたり内政に力を入れるなど…もう少し頑張って長安をとるとかも…ただ、呉も魏に対して動くかもしれませんね…ifを考えるのは難しい…
(PC)
17 朱家
劉封に送った使者
@「戦況不利で至急援軍をお願いしたい」
A「戦況有利だが、兵不足の恐れあり、援軍をお願いしたい」
@はないですよね。これなら援軍を送ったでしょう。おそらくAですね。援軍を送れば樊城は落ちたでしょうが、功績は関羽。もしそれで上庸が落ちたら「援軍の必要性も判断できないのか!」で終わりですよね。劉封にメリットがないと思います。兵不足なら撤退しなさいって感じで、廖立伝評も頷けますが、それによって戦意を失わせつつ、士気を上げる効果も否定できず、罷免覚悟で諌言したならともかく、自身も荊州にいて、あなたの責任は?と突っ込みたいですね。劉備は彼の才を愛し、その責任を問わなかったのに、劉備を非難するなど、評価などではなく、結果を並べて悪態をついてるだけだと思います。

まあ想像なんで、議論のレベルではないですが、樊城落としても、呉と交戦状態になってますし、蜀が有利だと魏との同盟強化するでしょうし、こちらの収拾も時間を要すると思いますよ。
(EZ)
18 無問題
元歎さん・愚痴愚痴野郎の廖立ですか(笑)蜀は荊州出身者が多いですから、彼のように関羽を批判するのも荊州出身者の考えだったのではと勝手に思ってますがね?
朱家さん・確かに兵力足りないなら撤退しなさいってかんじですよね?関羽は手柄をたてようと焦っていたのではないでしょうかね?
(EZ)
青龍サン・DJサン

素晴らしい討論をしているのに、そういう終わり方になるのは非常に残念です。。。
相手の意見を尊重し、自分の意見を述べることを意識して、もう一度再開を!!

お二人もその他の方も、見ていて楽しいし勉強になる素晴らしい発言だと思いますよ♪

ほとんどが答えの出ない話ばかりです。注意事項を良く読んで、楽しく討論しましょう!!

お話中失礼☆レス不要
(PC)
20 朱家
そういえば、関羽討伐に張遼も向かってますね。徐晃が退けて出番なかったけど。魏の五将(楽進死んでるから四将)のうち三将動員されてる。張コウいたら完璧だけど、残念ながら陳倉にいたみたい。改めて、凄いな関羽(笑)魏も必死だ。もしそれらを薙ぎ倒してたら、魏の出すカードはないね。しかし関羽一人では勝ち目ないよなぁ〜それだけ集結されるのは、いよいよ劉備の責任が大きいか?
(EZ)
21 無問題
朱家さん・確かに彼等以外の将を見てみれば、守将が曹仁で補佐役が満寵、援軍に于禁・ホウ徳とそうそうたる面々ですよね…。それだけ魏は必死だったんですね…。最後は曹操みずらか出陣しようとしてますもんね。今更気付きました(爆)
(EZ)
22 ナナホッシー
劉備が漢中王になった際に、前後左右の将軍を定めていますが、そのときに諸葛亮が「関羽を黄忠、馬超と同列にするのは納得しないのではないですか」と言うのを、劉備が「この4将軍は同列ではない。関羽の前将軍は別格だ。わしが言えば分かってくれる」と言ったといいます。これって出典なんでしたっけ?

ともかく、関羽が曹操陣営で「不臣の礼」夏侯惇がついていたのと同じ将軍にあったということは、劉備陣営のナンバー2ということであり、それを任せられるだけの器量と劉備は判断したのでしょう。

それだけに、外交能力の欠如は悔やまれます。フォローする家臣がいなかったのも関羽の不幸でしょう・・って馬良は何やってたんだ?
(PC)
23 赤龍
>>22黄忠伝には「黄忠を関羽と同格にすると、関羽は納得しないのでは」という趣旨の諸葛亮の発言がありますが、劉備は「私が自分で説明しよう」と言ってるのみです。
一方費詩伝には、黄忠と同格となったと聞き怒る関羽に「漢王は一時の功績により、黄忠を高い身分にされましたが、心中の評価がどうして君侯と同等のはずがありましょう」と諌めています。
演義は手元にないので確認ができません。が、思うに何かの本でこれらの記述が組み合わさって多少脚色されたのではないでしょうか。
(PC)
24 ストラップ
>>22
馬超に関しての記述があるのは、「関羽伝」ですね。
馬超が平西将軍になった時、関羽は腹を立てていますが、
「馬超は兼資文武、雄烈過人。一世の傑であり、鯨布や彭越みたいな者で、張飛と先を争うべき人であるが、それでも猶、髯殿の絶倫には及ばない」
と孔明に言われ、ごまかされています。
(PC)
25 無問題
七星さん・そうですよね〜。いったい馬良はどこで油をうってたのでしょうか(笑)伊籍も行方不明になってますよね…。
ストラップさん・そのあと関羽はその手紙を側近達に見せびらかしたのだとか…。なんか餓鬼みたいですね…(笑)
(EZ)
26 元歎
>>22,>>25 僕も馬良は何をしていたんだと思って調べてみたら関羽の樊侵攻の時、馬良は荊州にいなかったようです。馬良も伊籍も益州にいたようです。演義の影響で馬良は関羽直属の参謀だと思ってたf^_^; ってことは、関羽のそばに参謀はいなかったということになりますね…いくら人材不足とは言え、それはないと思いますがどうなんでしょう…?

>関羽はその手紙を側近達に見せびらかしたのだとか…。なんか餓鬼みたいですね…(笑)
まったくその通りですね(笑) でも、関羽の気持ちはよく分かりますね。馬超は一時的とはいえあの曹操を追い詰めましたからね。その人物より上と言われれば誰でも舞い上がりそうです。
(PC)
27 無問題
元歎さん・そうなんですか?てっきり馬良も移籍も荊州にいるものだと思いました。しかし、何故当時の荊州には微妙な人材しかいなかったのでしょうか?劉備も何故ほったらかしにしてたんでしょうね?それほどまでに人材がいなかったのでしょうか?
手紙の話ですが、関羽の性格がよくでている場面ですよね。演義から入った自分は側近に手紙を見せびらかしている関羽を妄想してポカーンとなったことがあります(笑)
(EZ)
28 赤龍
史実の関羽についての考察が盛り上がってる中申し訳ありません。ちょっと気になった発見。
関羽の顔といえば、演義にあるように「ナツメのような赤ら顔」ですが、演義に先行する『三国志平話』では「紫玉」のような顔だとされているらしいです。関羽の赤ら顔というのは、そういう説話自体は存在してたが、演義によって定着したのであろうと。
私は『平話』もってないので確認できませんが。
しかし、紫色って顔色あんましよくないですね(笑)
(PC)
29 ストラップ
平話で関羽の顔を「神眉鳳目」と、意味不明の表現をしていたのは覚えていますが、顔の色に関する記述は記憶に無いですね。恐らくさらりと一度だけ書かれているのでしょうね。今度調べておきます。
(F2102V/FOMA)
30 しす
>>28
紫○という表現の場合、文字通りの紫色ではなく紫がかった赤色を指す場合が多いようです。
例えば孫権の記述に見える「紫髯」も実際には赤ヒゲのことのようです。
なので確証はありませんが「紫玉」という表現もワインレッドあるいはマゼンタのような色という意味かもしれません。
(PC)
31 元歎
紫でも赤でも、どちらにしても孫権の髯は異様ですね(笑)
でも、「紫玉」が紫がかった赤色を指すなら、一応、『赤』なので忠義を示すことになって、顔の色を紫とした理由はわかりますね。ところで、『玉』ってどういう意味なんですか?

無問題さん>関羽のまわりに誰もいないというのはおかしいですよね…。劉備がそれほど関羽を買うはずないし(関羽は将軍ですから)…。史書に名すら残らなかった人物が、おそらく補佐役だったんでしょうね。
(PC)
32 朱家
荊州の事務を束ねてた潘濬がいますよ。後の呉丞相候補。孫権に危険な直言もしてますし、見識や軍事の逸話もあるし、孔明の代役は出来る人材と思います。彼に出来なかった事は、他の誰でも難しくないですかね?

関羽の「赤ら顔」は亡命伝説のひとつですね。
少女を犯そうとした太守の息子を殺してしまい訪ね人となった。逃亡中に聖母廟の近くの泉で顔を洗ったら、赤く変色してしまい、何事もなく関所を通過できたとさ。
赤ら顔の伝説はこれしか知らないが、他にあるのかな?なぜ演義はこれを採用したのだろう?まあ他人のために罪を犯し、神が関羽を助けたって事だと思うけど、神が助けるなら、もうちょっと神秘的に助けても…
「紫玉」は宝石って事ですかね?五行説は詳しくないけど、紫色は、赤と黒、火と水を合わせ持つ色で、全てを統べる色ではないですか?「神眉鳳目」も人相占いの表現だったと思いますし「紫玉」=「最高の宝石」じゃないですかね?平話(読んでないけど)の感じだと、現実的な表現をしないような気が…
(EZ)
33 赤龍
>>29さすが『平話』のことならストラップさんですね。よろしくお願いします。
さて紫色について、五行説に>>32のような解釈があるのかは知りませんが(私は聞いたこと無いです)、紫色自体は高貴な地位の人に使われる色でもあります。「紫微宮」「紫宸殿」「紫禁城」等等。「神眉鳳目」につつけて、こうした縁起のいい色をもってきたのかも?
(PC)
34
 以下、『堅瓠集』に引かれる『関西故事』にある桃園之盟に関連する内容から抜粋です。
「浦州解梁城出身の関公は、もとは関という姓ではなかった。……老人が「私の娘はすでに結納までもらっているのに、県知事の父親が娘が美しいことを聞きつけて妾にしようとしたので県知事に訴えたのですが、かえって叱責され罵倒されてしまいました。それで、二人で泣いているのです」と関公に訴えた。関公は大いに怒り、剣を携えて県の役所に出掛け、知事とその父親を殺して逃走した。……川原に伏して水を掬って顔を洗い、水面に顔を写すと、顔は青みがかった赤色に変わり……」

 青みがかった赤が「紫」色です。紫は青と赤のまじった中間色で、『説文解字』では「帛の青赤色なるものなり」としてます。たぶん『論語』だと思いますが、「文は赤と青の彩である」としており、「文」とは中国の中では最も尊ばれる言葉の一つですね。
 神仙思想(練丹術)でも、丹(赤色)と青は重要な扱いを受けています。

 紫玉とは、美しいとか雄々しい顔を表現したかったのでしょうかね。
(P900i/FOMA)
35 無問題
関羽の顔の色の話ですか?その紫色の顔色の話はじめて聞きました。なんか紫サツマイモみたいで顔色悪いですね(笑)
(EZ)
36 ストラップ
以下、日本語版三国志平話p36l3から引用。


さて、とある人物、姓を関、名を羽、字を雲長という。この人は平陽蒲州解良の出身である。その容貌は神眉鳳目、ちぢれた頬ひげを持ち、顔は紫の玉(ルビ;ギョク)のよう。身の丈は九尺二寸ほどどあった。『春秋左伝』を愛読し、乱臣賊子の伝を見ては、つねに怒りを発していた。故郷の県の県令が財をむさぼり、賄賂を好み、民を虐げていたので、その県令を殺してしまい、逃亡してタク群に来ていたのであった。

難を避けて身漂泊するに因らずんば
いづくんぞ分金の重義の知に遇わん


以上引用終わり
(F2102V/FOMA)
37 ストラップ
>>36

×→ほどどあった
◯→ほどであった


神眉鳳目には、「元から明にかけて行われていた人相占いの用語」と解説されています。明代に刊行された「麻衣相法」という書物を引き、鳳目に相当すると思われる鳳眼を、

「鳳眼」をしている人は「富貴」で「聡明たること超越」であるという。

と、解説しています。
(F2102V/FOMA)
38 元歎
>>32
潘濬も関羽に協力的ではないと思うので省いたんです。多分、潘濬は従軍しておらず、関羽の側にはいなかったはずですし。ということで、言い換えます^^ 樊攻撃の時、関羽の側に文臣はいたのでしょうか?
(PC)
39 朱家
関羽の側にはいなかったと思います。潘濬は役職的に関羽の側近なんですけどね。どちらが拒否したか分かりませんが、最低でもこの人だけとは協力しないと…関羽を操縦できるのは士元ぐらいと思いますね。孔明でギリかと思います。潘濬も孫権を操縦できるほどの人物なんですけどね。
(EZ)
40 ストラップ
>>37
紫の玉、という表現はありませんが、三国志演義でも神眉鳳目に近い描写がされていますね。以下三国志演義からの引用。

其声鐘のひびきが如くなりければ、諸人驚て之を見るに、其人身の長九尺五寸、髯の長さ一尺八寸、丹鳳の目臥蚕の眉、面は薫棗の如くなり。
(F2102V/FOMA)
41 識川
いまさら蒸し返してすみません;容姿についてのことなんですが、「鳳眼」というのは人相学で切れ長の涼しげな目元で品があり、聡明で高貴な相であるそうです。また紫は気品と生命力を表す色であることから、「紫玉」というのは見たままの事実ではなく、精悍でありながら品性も持ち合わせた顔つきであることを感覚で連想したものと思われます。
>>>30生命力、というキーワードから、孫権の紫髯も、むしろ黒々と艶のある髭なのでは?と個人的に思います。何十日も不潔にしていると黒髪が栄養不足で日に透けて赤茶けてしまいますから、貧しい人物と同じ毛色であったとは考えにくいし、それを史書に残すとはありえないでしょう。
すみませんでしたロムに戻りますノシ
(P900i/FOMA)
42 識川
レスアンカつけまちがえたOTL
>>30紫の表現として他に、「紫髪」…生まれてから死ぬまで絶対に抜けない、生命を司る霊髪のこと。(心霊オカルト本より)
「燕色」…艶消しの品のいい黒。髪の色の表現として烏の濡れ羽色を漆黒(青)とするが、こちらは紫で表現される。
(P900i/FOMA)
43
>>41
 孫権の紫髯に関しては、他の書物でもよく使われる表現ですから、意味合いは茶系統の色を指すと思いますよ。

 紫には、どうやら悪い意味もあるようですね。中間色は、昔の中国では好まれなかったようですから。
(P900i/FOMA)
皆様、初めまして!宜しくお願いしますm(__)m
10年以上前の事で何を読んだのかを忘れてしまいましたが・・・1つ思い出した事があり気になったので皆様の意見を伺いたいです。
うろ覚えですが・・・蜀が滅亡した際、後の憂いを絶つ為に関羽様の一族を曹家だったか司馬家だったかが皆殺しにしたとゆーのなんですけど・・・↑の信憑性は如何なものなんでしょう?

板違いかもしれないですが宜しくお願いしますm(__)m
(SH901iC/FOMA)
45 崇英
>ギタケ殿
蜀漢の滅亡のおり、ホウ徳の息子・会が関氏の血統をことごとく滅ぼした…
と、関羽伝の注『蜀記』にあります。
この記載がある以上、完全には否定できないと考えます。
しかしながら、この『蜀記』はホウ徳伝で、ホウ徳の遺体が蜀にあったような
ことが書かれていたりする為、逆に完全に信用するのも些か遠慮したいところです。
(PC)
崇英様
返事が遅くなり申し訳ありませんm(__)m
ホウ徳の息子だったんですね。
私の記憶違いかもしれないですがホウ会は、そこまで残虐な人間やなかったと・・関羽伝の注『蜀記』にあるのですから受け入れざる負えないですけど。
信憑性はともかく、関羽様の血統がことごとく殺害された事は全くのデタラメって事ではないのですね。

いい意味でも悪い意味でも様々な人に対して関羽様の存在は大きかったんですよね・・・

崇英様、答えて頂きありがとうございましたm(__)m

いつどこでどの様な形になるかわかりませんが、次回も宜しくお願いしますm(__)m
(SH901iC/FOMA)
板違いで申し訳ありません。

今年のゴールデンウイークに仕事の都合で神奈川県の川崎に行く事になり、この際だから中華街に在る関帝廟に行こうと思ってるんですけど・・行き方がわかりません。
川崎から電車での行き方を教えて下さい。
宜しくお願いしますm(__)m

雑談・単発質問スレよりも、ここで聞いた方がいいと思いレスさせて頂きました。
(SH901iC/FOMA)
48 しす
>>47
川崎からならば京浜東北線で乗り換え無し。
下り電車の乗って石川町駅まで行ってください。
確か横浜の3つ先?(うろ覚え)
駅からの順路は駅に確か中華街マップみたいのがチラシであったと思うのでそちらを参照していただければ問題ないと思います。
ただ慣れないと道に迷うので、それだけ注意してください。

余談ですがしすのお勧めのお店は中華粥専門店の謝甜記(しゃてんき)
まじで美味いです。
いつも行列だけど(汗)
(PC)
しす様
お返事ありがとうございますm(__)m
迷いそう・・でも、頑張って行きますo(^-^)o

中華粥専門店には時間的に行けそうにないので・・・
次回、時間をつくって行きたいと思います(^o^)/

しす様、ホンマにありがとうございましたm(__)m
(SH901iC/FOMA)
50 天草
某雑誌で、劉備と関羽の同盟説、関羽の群雄説を久々に拝見しました。

もう一度これについて賛成の方の意見も聞きたいですね。
皆さんはどう思いますか?
(N902i/FOMA)
51 しす
>>50で天草殿の仰ってる件に関しては>>>293参照。
なお一本化のため、>>>293での議論はこちらで継続…ということでいいですよね。

ちなみに私の見解は既に同スレ>>>293-11で述べた通りです。
(PC)
52 天草
>>51
ご指摘感謝☆

同盟説・群雄説は置いといても、関羽にはかなりの特権があったのでは?と予想できますよね?

外交権なんてその象徴みたいなものですし。

本当にこのやり方が正解だったのかなぁ?
(PC)
53 寿君
 何せ関羽伝の記述が簡略だから、あのまま信じれば単に部下ですよね。
 でも、またこんな見方しますが、
「実際には劉備と関羽は対等に近い関係だったが、陳寿が昭烈帝の神聖性を際立たせる為、関羽のランクを落としたのかも知れない」 と推測してるんです。
 それに、関羽と劉備って別行動が多いのも気になります。
 官渡の時も長坂の時も、もしかしたら関ケ原の真田の二股みたいな意味合いがあったかも知れません。

 何せ劉備も関羽も演義のような理想化された人格の持ち主ではなく、もっとシビアだったと思います。両方とも戦乱の中を地べたからはい上がってるし…。
(P901iS/FOMA)
54 巫俊(ふしゅん)
浅井長政は朝倉義景の被官(家臣)説というのに近いですね。
この関羽の同盟説とは反対ですけど。
劉備にとっては自身みずから任命した前将軍が関羽だと思いますけど。
劉備は曹操から左将軍に任命されるように計らってもらってるんですが、曹操の手下じゃないように振舞ってますよね。徐州奪還以後。
つまりは当事者間の問題なんで、臣下か同盟かというのは虹色にも変化するということに。
それにしても関羽同盟者という発想はびっくりですが。
(PC)
55 赤龍
>>52
そもそも、関羽に外交権というほどのものまでほんとに委ねられてたんでしょうか?
私はそうは思えません。
証拠としてあげられる「単刀赴会」の件も、単に前線の責任者として当座の対応と、相手の言い分を聞いたのみにすぎないと思います。結局この時、関羽の決断での決定はなにもなされていず、最終的な結論は劉備が荊州の一部を割譲すると決定したことからも、権限は関羽になかったことが分かります。
魯粛に反論した者に対する関羽の言葉「これはもとより国家に関すること」、これは前線の関羽らに権限が無いことをかんじさせます。
(PC)
56 ストラップ
今思ったのですが、周倉の「水練に長ける」という設定は、艙(舟に倉)の字からの連想でしょうか?「艙底」で船底を意味しますし。
(PC)
57 ストラップ
>>>317-65に、周倉の出身地が「周家湾」という都市であると書いてありますが、「周家湾」について詳しくご存知の方はありますか?

演義で周倉は、裴元紹に因って、「板肋虬髯」といわれますが、「虯髯」を漢和辞典で調べたところ、「みずちがとぐろをまくように曲がっているひげ」とありました。何故岩波訳ではここを「赤ひげ」と訳しているのでしょう?「赤ひげ」って、我が国では西洋人の意味ですよね?リュウキュウコマドリという鳥のことでもある様ですが、やはり関係ありませんし。
(PC)
58 天草
今更アンカーをつけるのも申し訳ないほど遅いのですが…(;^_^A

>>55
魯粛が関羽相手に会談をしている事自体が、外交権の有無を指しているとは考えられませんか?
そもそも通常なら、成都に趣き、劉備に直接か、諸葛亮への会談…という事になると思うのですが、この場合、関羽に会いに行ってますよね。

関羽の立場が、一介の交渉役として、役不足だとは思いませんが、はなっから関羽への交渉が行われた様に思えます。
(N902i/FOMA)
59 しす
>>57
ちょっと調べて見ました。
現在の周家湾と言うと内モンゴル自治区を走る准東鉄路の始発駅が周家湾だそうです。
現在は鉱山地区のようですね。
場所は内モンゴル自治区のオルドス(鄂爾多斯)市のジュンガル(準格爾)旗。
オルドス市は遊牧に適した地であり、華北からモンゴルに至る交通の要衝だったようです。
三国の時代で言えば匈奴や鮮卑が暴れまわっていた地ではないかと思います。
ただ周倉と言うと、例の籐編みっぽいヘルムや、水練達者であることから、どうも南方のイメージが強い気がするんですよね。
その伝説がいつ頃生まれた話なのかが見えてくると、また面白いかもしれませんが。
(PC)
60 ストラップ
>>59
ありがとうございました。
ネットで「周家湾」を検索しても、スチームロコモーターの画像ばかりで、参っておりました。

周倉は第二十八回で、裴元紹に「山上有一関西人、姓周、名倉」と言われていますから、僕はそのイメージでした。
赤莵を関羽に渡す際、関西の大男というのが出てきます。岩波の注に因ると、
「(前略)関西の大男という事場は、宋・元時代の書物によく見える。今でも北方の中国人は中部(揚子江流域)の人々にくらべて、背も高く大柄であるが、宋・元時代には陜甘地方の人が特に大男と思われたらしい。」
とあります。
周倉自身も「黒面長身」ですから、演義ではそのイメージで関西人という設定に書かれている様です。
(PC)
61 しす
>>58
魯粛伝を読み直してみたのですが、どうも私にはここで本格的な外交に関する話がなされていたとは思えないんですよね。
関羽に外交権があったというよりも、最前線に関羽がいたから、まず関羽に会いに行ったと考える方が自然だと思うのですが。
私は劉備の考えとしては、彼に外交権を与えたのではなく、外交権のない彼を矢面に立たせることで問題を先送りにしようとしてるようにすら思えます。
(PC)
62 朱家
関羽に専行権を与えるのは漢中王の後で、自由に軍を動かす権限もないのに、外交権があるとは思えません。
「単刀赴会」は演義の影響だと思いますが、『正史』によれば、益州平定後、孫権が荊州返還を求めたが、劉備が拒否して、孫権は軍を発し、劉備も軍を発し、関羽は先鋒的な立場でしょう。「単刀赴会」はその後で、孫権とすれば、最初の交渉も、軍による圧力も、完全に交渉決裂した劉備と再び交渉するのは、非常に弱腰で士気に影響すると思われます。魯粛も交渉ではなく、道理に外れてる劉備を説得しなさい的な感じだと思います。
しかし魯粛とすれば、想定内だったと思いますね。軍を発した時点で、全土返還は不可能で、追い詰めて開き直られるのも困るので、こんなとこだろうって感じだと思います。無血での全土返還は、関羽が劉備を説得するぐらいしかないですしね。
(PC)
63 しす
>>57-60
実家で学生時代に買った本を整理していたら、新人物往来社の『三国志縦横談』で周倉に関する記述を見つけました。
以下原文のまま。

また『山西通志』に次の記載がある。
「周将軍は平陸の人なり。初め張宝の将たり。後に関羽と臥牛山に遇い、ついに相従う。樊城之役に生きながらホウトクを擒え、後、麦城を守りて死す」

『山西通志』は後代に書かれたものだし、あまりにも演義の周倉像そのものなので資料的価値はどうかとも思いますが…。
(PC)
64 巫俊(ふしゅん)
『山西通志』・・・昨年うっかり読み逃したので、個人的に今となっては垂涎の的の地方誌なんですが、
所蔵してない図書館が多くて困っています。
(PC)
65 ストラップ
>>63
という事は、周倉は山西省の出身という認識がなされている訳ですね。関西人、と書くより、「平陸県」と詳しくなってますね。
(PC)
66 巫俊(ふしゅん)
『山西省地図冊』には(2005年発行)平陸県に周家湾という地名はないようですけど、最終的には村単位で書かれた地形図を参照するよりほかはないですね。

平陸県は漢の河東郡の一部です。黄河の渡し場の茅津があったところが平陸というところですね。

『漢書』や『後漢書』には、ヘイ州西河郡の平陸県という地名が登場しますが、ヘイ州の平陸県との関係は不明です。
(PC)
67 巫俊(ふしゅん)
>>66
現在の平陸県は漢代の河東郡の位置にあります。

とややこしいので訂正しておきましょう。

古今、平陸という地名には三種あります。
三国時代の地名に直すとそれぞれ以下の地点を指しますので付記しておきます。

ヘイ州西河郡平陸県
司隷河東郡大陽県
エン州東平国東平陸県

平陸は古くは『孟子』にも出てくる地名ですが、それはエン州東平国の東平陸のことを指しています。

三国時代にあって、東の平陸に対する西の平陸とは、ヘイ州西河郡の平陸県です。
ですが、この西河郡平陸県は山西省の西部に位置しますから、山西省の南部に位置する現在の平陸県(河東郡大陽県)とは位置が離れています。
(PC)
68 巫俊(ふしゅん)
>>67
そこで参考になるのが唐代に書かれた『通典』という書物です。
少しばかり引用するとこうあります。

本文

陝 州・・・(中略)・・・春 秋 虢 國 之 地 , 所 謂 北 虢 也 .

注釈

虢 仲 國 , 今 平 陸 縣 .

虢國(かくこく)という国は、西周時代から春秋時代の前期にかけて、この地にあった国の名前です。
この国の城跡からは鉄器が発見されていまして、往年の虢國(かくこく)は強国だったようです。

虢國(かくこく)は下陽と上陽というふたつの首邑をもっていまして、下陽は山西省平陸県にあり、上陽は河南省陝県にあります。
このふたつの城はそれぞれ黄河の北岸と南岸にありまして、実は黄河を挟んで隣あっているんです。

考えてみると、ここに茅津という黄河の渡し場があるのも合理的ですし、南岸の陝県に函谷関があるのも、立地的にかなっています。

唐代以降の平陸は、関西と関東を結ぶ接点にもあったといえますね。
(PC)
69 巫俊(ふしゅん)
>>67
能書きが長くなりましたが、演義が流行した伝統的な中国社会において、
周倉は関羽に仕えた武人として、一定の敬意を払われていた訳です。

例えば、福建地方の伝統的な歌謡を集めたものに『閩南語俗曲唱本「歌仔冊」』というものがありますが、
赤壁の戦いを歌った歌詞が何種類かありまして、

雲 長 周 倉 來 領 令

という一句を見出すことができます。

領令は、雲長・周倉が軍隊を引率するという意味か、もしくは雲長・周倉が孔明の命令訓示を受けるというような意味だと思われます。
(PC)
70 巫俊(ふしゅん)
ところで、清代に朱子光という人が台湾にいまして、『關聖帝君祀典序』という千数百字くらいの短い文章を残していまして、関帝廟や関羽の神について雑多な考察を書き連ねてあるようです。
周倉は陳寿の三国志には出てこないとか、なんか正史派の原点みたいなこと書いてあります(笑)
これは19世紀の前半に書かれたってことがはっきりしてるので、いつの時代に関羽と周倉がどう扱われていたか、とかを知る史料になるようですよ。

ということで、一人で興奮しながら読んでるんですが(笑)
長くなりそうなんで、これも私のブログに書くことにします。

けっこう周倉関係の伝説はありそうですね。
(PC)
71 天草
>>61-62

メチャメチャ亀レスですが、ご意見拝見しました。
実は私も関羽には特別な権限があったとも思いませんし、まして別勢力として同盟関係だったなんて思いたくありません(笑)

でもそれでは議論になりませんから、何か材料を探してみます。
もし他に『関羽外交権所持説』『関羽独立勢力説』を唱える方がいれば、意見を下さい!
(N902i/FOMA)
72 赤龍
関羽の外交権の有無の問題、演義で「単刀赴会」とされる場面の主に関羽の行動に注目した議論がなされてますが、視点を変えて魯粛の方にも注目してみようと思います。
>>58で、魯粛がなぜ劉備や諸葛亮でなく、関羽に会いに行ったのか?という問題があります。
魯粛というと、演義の影響で外交官、下手したらパシリ(笑)という影響がありますが、実際の当時の彼の立場は荊州方面の前線の軍の司令官でした。そして、この時荊州の帰属をめぐる問題で、孫権はついに実力行使にでて、劉備もそれに対し、関羽にそれの阻止に向かわせます。つまり、両軍が一触即発の状況。前線の司令官である魯粛が、現場をほったらかして、劉備の元に外交に向かう事はまずないでしょう。
前線の指揮官である魯粛が、同じく対峙する相手の前線の指揮官である関羽と会見。孫権軍を代表し自分たちの主張を関羽に伝えた。こういう事だったと私は考えます。
つまり、もとより相手が外交の使者ではないので、この件から関羽の外交権も主張することもできないということです。
(PC)
73 削除済
>>73

スレを確認して書き込みしてますか?
今回は注意のみで、書き込みは後日削除いたします。参加される時は注意事項を良く読んで下さい。これはネットに限らず、リアルの社会でも同じですから、まず『常識』を勉強して下さいね。

もし悪意のある書き込みならば、次回からは容赦なくauの方にあなたの携帯の個別IDを警告の対象として、連絡をします。特にauは契約解除で対応してくれた実績もありますのでご注意下さい。

あなたが、文字だけでしか何かを表現できない様な、寂しい人間にならない事を願ってやみません。
(N902i/FOMA)
75 慶次
はじめまして!
慶次と申します。以後よろしくお願いします。
では関羽の商売の神のことなんですが…何かの本(題名忘れました)で見たんですが、また時代も覚えてないのですが、商売の品を運ぶ手段として多くの船が使われ、それを狙う海賊も多くいた。そして防ぐためには護衛がいて武力を持つわけです。そこで安全祈願のために関羽の像を飾っていてそこから関羽=商売の神という考えが派生したという事です。
駄文・うろ覚えすいません。
(N904i/FOMA)
76 ストラップ
関平でググったところ、
>民間伝説では字を坦之とするものがある
という記述に大量に出会いました。

どれもこれも、「民間伝説(民間伝承?)」と書かれていますが、これは口伝か何かで伝えられている事なのでしょうか? どこかに「坦之」としたフィクションの資料があるのでしょうか?
(PC)
77 しす
>>76
私が知ってる限りでは関平の字に関して触れられている民間伝承は知りません。
京劇などでも特に字で呼ばれていることもなさそうですし。
少なくとも私の持っている三国志の民間伝承についての本『三国志縦横談』および『三国志外伝 民間説話にみる素顔の英雄たち』にはその手の記述は無かったように思えます。
(後でじっくり調べ直してはみますが)
ただこの件に関して出所がどうもウィキペディアに集約されている気がするので当然ガセネタの可能性はあるでしょうね。
(ヨーダのモデル=依田巽という噂並に胡散臭い気が)
(PC)
78 ストラップ
「民間伝説」という書き方から、ガセ臭いなぁとは思ったのですが、出典がはっきりしない限り、嘘と特定できませんからね。
肥のゲームか、誰かの小説か、それに類するものの設定の可能性は高いですね。
(PC)
79 赤龍
中国で「関羽の家系譜」が見つかったそうですね。

「その関羽の家族関係に関して今なお多くの謎が残されており、今回報道された「関氏家譜」はその謎を解明する大きな手がかりになる。」

なんて記事には大げさなこと書いてますが(笑)

リンクは禁止ワードに引っかかって貼れませんでした
(PC)
80 雲長
79赤龍さん、初めまして。その話は、本当ですか。かなり気になります。自分は、関羽が大好きなんです。
(N905i/FOMA)
81 赤龍
記事を引用したりすると長くなりそうなので、ブログ「三国志博物館集解」の方で紹介してみました。

ttp://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50601248.html
(PC)
82 しす
>>76-78
結局調べても全く話の出所が解りませんね。
「坦之」で検索かけても『天龍八部』の游坦之てか出てこないし。
黄夫人の名(玉英あるいは月英)とか孫夫人の名(尚香)なんてのとは別次元の話ですよね、これは。
(912T/SB)
83 ストラップ
やはりマイナーな小説の設定なんでしょうかね
調べていただきありがとうございました
(F2102V/FOMA)
84 しす
ウィキペディアの方にまた新たに関平の字が記載されてましたよ。
今度は「定国」。
関興の字が安国だから定国?
でも定国と言ったら『水滸伝』の神火将魏定国を思い出しますよね。
まぁこれもどこかの小説の設定なんでしょうね。
ウィキペディアの情報なんぞ参考程度にしか考えてはいませんが、こうした安易なカキコミはほんと勘弁ですね。
(PC)
85 ストラップ
ウィキペディア最近見てませんでした。

しかしウィキペディア、最近三国志の項目が妙に充実し始めていますね。棗祗の項目まであるし。
しかし関平位の有名人になると、嘘が書きやすいのかも知れません。


最近「りょうさいしい」に「冤獄」というタイトルの作品を見つけたのですが、関帝の配下という周将軍が活躍してカッコいいです。
(F2102V/FOMA)
86 バンビ
萌黄さんの為に一応上げておきます!

ちなみに、自分の意見を…
関羽が敗北しもし蜀に無事帰還する事が出来ていたら少し程度は盛り返す事が出来たかもしれないですね。
あと、萌黄さんはあの若さでとおっしゃっていますが関羽もせいぜい50ちょっとは歳を取っていると思われるのであの時代の平均的な寿命ですし、たとえ曹仁を破っていたとしても近い内に死んでいたかもしれませんよ!
(W54T/au)
87 萌黄
ありがとうございます!
ん〜そうですか、でも黄忠とか七十歳くらいまで生きていましたよね。乱世でそこまで生きられるのって凄いですよね。私は三国演義の知識しかないのですが、死んでもなお、何らかの影響を及ぼしていたって本当ですか?それとも三国演義ならではの作り話ですか?劉備に会いにいったとか、霊体で
(P903i/FOMA)
88 バンビ
前のスレは消さなくても良いですよ☆

でも、黄忠の年齢は確か正史の記述にはなかったので多分それくらいは生きているんでしょうけど自分は分からないです。

萌黄さんが言われているのは恐らく三国志演義というよりは民間伝承だと思います。
そちら系はもっと知識がないのでよく知りませんが(汗)
(W54T/au)
89 萌黄
そうなんですか〜まだまだ三国志の「さ」の字も分かりません。もっともっと本などを読んで勉強しないと
(P903i/FOMA)
90 朱家
関羽が関羽であるためには、劉備が必要であり、夏侯淵や曹仁の指揮下に配属される関羽なんて…

風邪が死因になると思われる時代ですから、運が悪い訳でなく、関羽が関羽である限り、あの時点で死ぬ訳で、正史や演義、現在の宗教的な関羽も含め、ファンとしては、関羽らしく死んだと解釈し、リスペクトして欲しい気持ちがあります(笑)
もちろん、個人ではなく、蜀漢の関羽(立場や存在、言わば公人)としては、別ですけどね。
(PC)
91
関公って呼ぶのが疑問。 関羽でいいだろ
(DRAPE/au)
92 関翔
はじめまして。以前より色々拝見させていただいてはいたのですが、正史を読んだことがないなど、議論に足る知識が少なく控えていました。でも、思い付いたことがあるので意見したいと思います。
民俗学的分野(?)ですが、日本では怨霊が生まれるのは
・有名人が惨い死に方をしたとき
・その後祀る子孫がいなくなったとき
であるというのを本で読んだことがあります。その結果、菅原道真のように神として崇められるわけです。関羽が神になった場合においても、元々の人気などに加えて同じような側面があったのではないでしょうか?彼の子孫は少なくとも、ある程度公には皆殺しにされている以上、為政者や人々が祟りを怖れて祀りあげたと考えることも可能かな、と思います。
このような手段は神武東征辺りからと聞くので、三国時代よりも前ですよね。中国ルーツなのか、日本からの逆輸入かはわかりませんが…。
神格化に関して、拙い意見でしたがいかがでしょうか?
(L03A/FOMA)
93 諏訪
>>92
はじめまして。

現代では関羽が特に有名になっていますが、非業の死を遂げていなくても、著名な人物はたいてい神として祀られています。
後世における関羽の人気は、非業の死による判官びいきが一因としてあるでしょうが、関羽の神格化は怨霊だけが原因ではないと思います。

ところで、神武東征は神話です。
史実ではありませんよ。
祟りをおそれて祀るという行為は、中国では殷の時代から存在します。
(W51S/au)
94 関翔
なるほど。こんなに早くレスが頂けるとは、ありがとうございます。これからもよろしくお願いしますね
自分は理系の人間ですし、あまり詳しくはないのですが…。
無論、怨霊が怖いことだけが関羽を神格化したとは思っていません。ただ、これだけ有名ならしめた一因として、彼の死後すぐ曹操・呂蒙が死に、呪いであることが騒がれたのちに、子孫が皆殺しにされているわけで、人々はこれによってまた祟りが起きるのではないかと心配したのではないか、と考えてみたわけです。メインは子孫が絶えていることだったのに伝わらなくて申し訳なかったです…。それにしても殷の時代からそうだったとは知りませんでした。宗教社会学などから眺めれば当たり前かもしれませんが…
あ、それから、自分は神武東征は実際に…少なくともモデルとなる出来事はあったと思っています。その根拠は…脇道にそれすぎるのでやめておきますね。
(L03A/FOMA)
95 しす
関羽の神格化ついては
>>99-4
で私も祟り設をカキコしてますが、さすがに数年前のものなので今は微妙に違う考えです。

個人的には祟り云々は神格化されていく課程で付加されていったものだと今では考えてます。
(912T/SB)
96 しす
すいません。
>>>99-4ですね。
追加しますと、祟りの対象になる人物は他にもいくらでもいたにも関わらず、なぜ関羽の神格化がここまで肥大化したのか?
他の人にはなくて関羽にはあった条件というのがあるんだと思います。
そう考えると関羽神格化の立役者は曹操かなぁという気がします。
(912T/SB)
97 諏訪
南北朝時代には、道教の世界で曹操や劉備が神になっていますが、関羽はまだ神になっておらず、関羽が神として登場するようになるのは、死後400年以上経った唐代からです。
関羽の死後あるいは関羽の子孫が絶えた直後に、人々が関羽の祟りをおそれた、ということはあまりないように思います。

私も>>95のしすさんと同様に、祟り云々はあとから付加されたもので、神格化された当初は、祟り云々はあまり関係ないと思います。
つまり、

関羽の祟りをおそれる→関羽の神格化

という順序ではなく、

関羽の神格化→後付けで関羽の怨霊の話が創作される

という順序ではないかという気がします。
(W51S/au)
98 諏訪
神としての関羽は、仏教界でいち早く登場しますが、あくまで仏法の守護神というかたちであり、怨霊云々は関係ないようです。
また他には、武成王(太公望)廟の脇侍として登場しますが、このときは古今の名将が脇侍に選ばれており、三国時代からは他に、張飛・張遼・トウ艾・周瑜・呂蒙・陸遜・陸抗が選ばれています。
このあたりをみても、関羽が祟るから神格化したというわけではないように思います。
(W51S/au)
99 関翔
色々と勉強させていただきありがとうございます。アンカーの張り方などがさっぱりな人間なので読みにくい自分の文を読んでくださるだけでもありがたいのに…
無双なんかでは生きているうちから軍神扱いしてたり、「はい、スキップ」ですよね。ゲームだからまあいいですけど、一般理解には騙されないよう注意していきたいです。
諏訪さんがコメントしてくださると軍神繋がりで面白いですね。ですが、もともと怨霊扱いされていたものが、時代と共に意味が薄れて三国の他の英雄と同じように祭られているという可能性も考えると、自分としては何とも言い難いご意見に感じます。無関係の説明は関係の説明に比べて厄介だっていう性質にもよるのかもしれませんが。また、仏教でも四天王などはもともと怨霊の仲間・餓鬼の類出身とも聞きますので、関羽が同じ扱いを受けていてもおかしくはないと思いますが。
また、ちょっと妄想族っぽいですが、祟りは創作であるとは思えません。
現代の感覚による事実は恐らく
関羽の斬首→呂蒙・曹操の死
だけですが、そこに呪いや祟りといった因果を見いだすのは人の心のみだと思いますが。そうだとすれば呪いや祟りの類いは実在するのではないでしょうか?自分と諏訪さんとの間には言葉の定義に若干齟齬があるように感じます。
しすさんのご意見に関しても、同じ齟齬があるかもしれませんね。でも、神格化の立役者が曹操であることは自分も賛成です。前述の因果の他、「為政者」=「曹家」に近いものがあると思います。過神格化(?)には確かに関羽固有の理由がありますよね。自分はその理由の一部を祟りや呪いに関する例の二点に絞って注目してみたかったんです。
・英雄と言える活躍ぶり
・一族皆殺し
の二点を満たす人って他にいるんでしょうか?どちらかなら、「ああ言えば孔融」(笑)とか、劉備とか、色々思い付くんですけど。怨霊の条件としてはこれ以上なかなかないと考えてるんです…。
(L03A/FOMA)
100 諏訪
100レスになったので、>>>545を新たな関羽綜合スレとします。
話の続きは>>>545-10以降でお願いします。
(W51S/au)