1 ユウキ

夷リョウの戦いについて

法正スレで夷リョウの戦いについての話題が出たんでスレ立てました孔明は東征に本心から反対だったのでしょうか?また諸将が反対した理由はなんだったのでしょう?賛成派はいなかったんでしょうか?皆さんの意見待ってます
(P900i/FOMA)
77 朱家
えっ!初めてでした?よろしくお願いします(笑)

>>76
おそらく、劉備が治め、馬良はいるから、劉巴、李厳あたりを呼ぶかな?死んでるかもしれないが、いやし系として、簡雍も呼ぶはず(笑)、成都は劉禅と、孔明でしょうね。

>>75
最初の反撃は退けてますから、微妙な感じがします。演義のような遠大な火計ではないし、基本は堅いが、一つでも潰れると駄目な陣だったのか、たった一つの陣が致命的な弱点となる陣だったのか、分からないけど、これらは、劉備が後陣にいれば、勝ち負けは別として、立て直せると思いますからね。
どうしても推測ばかりになるけど、孫桓が先走って失敗したけど、土地的にも、劉備には重荷となった気がします。
(PC)
78 寿君
最近の桶狭間の戦いに関する説に関して、信長は今川勢に突撃を仕掛けたのも、本陣強襲を狙ってと言うより、とりあえず敵の有力部隊を撃破して戦況を好転させようと言う目論見だったのではとの説も聞きます。
推測になってしまうけど、陸遜としても何度か攻撃をかけて撃退されながら、攻撃の間隔を調整する事で蜀軍が陣形を乱す間隙を作ったのではないでしょうか?。
大敗に関しても、もしかしたら「小さな綻びが予想外の大崩壊に繋がった」とも言えなくないと思います。
だからこそ、陸遜の名を天下に鳴り響かせる事になる大勝利になったと思います。

ところで、「わざと負けて蜀軍を深く誘い込む」って展開は陳舜臣の「秘本三国志」が初見だった気がします。
(P905i/FOMA)
79 諏訪
>>78
桶狭間の戦いについて、『信長公記』を読んでの私の感想は、信長えらく無能だなぁということと、偶然に偶然が重なって今川軍が大敗した、戦争って怖いなぁということですね。

夷陵の戦いでの詳しい戦況はわかりませんが、戦争というのは万全の準備をしているつもりでも、予想外の展開になることがある、だからこそ、むやみに戦争をするものではないし、戦わずに勝つことが大事なんですね。

だからといって、夷陵の戦いはするべきではなかったと考えているわけではありませんが。
(W51S/au)
80 寿君
劉備は持久戦になる可能性に対する準備不足が考えられます。
武陵蛮を煽動している訳だから、得意のゲリラ戦で粘り強く戦う事も出来たはず。
翌年には死去しますから、焦りがあったのではないでしょうか?。
敗戦のショックでと言うよりはそんな感じもしますし、曹操にしても漢中戦あたりは、冴えが感じられないので、年齢的な判断力の衰えも感じなくはありません。
ただ、蜀軍の兵力が実際どれぐらいだったかも不明瞭なのも困ります。
4万と言うのが先鋒だけなのか?総兵力なのか?武陵蛮からの援兵がどれぐらいだったのかも不明。
それに、武陵蛮援兵の規模によっては、前線に置いて規律正しく動かせたかも気になります。


まあ、判らないから仕方ないけど(*_*)
(P905i/FOMA)
81 諏訪
>>80
劉備がゲリラ戦が得意だったかどうかはともかく、敵領への侵攻戦ですし、夷陵・夷道やその先の江陵・公安の奪取が目的であるならば、ゲリラ戦なんてやりようがなかったのでは?
魏の動向も気になりますし、長期戦にはしたくなかったのだと思いますよ。

それと、武陵蛮が呼応したといっても、劉備軍に合流したわけではなく、それぞれ各地で反乱を起こしていたのではないでしょうか。
(W51S/au)