1 ユウキ

夷リョウの戦いについて

法正スレで夷リョウの戦いについての話題が出たんでスレ立てました孔明は東征に本心から反対だったのでしょうか?また諸将が反対した理由はなんだったのでしょう?賛成派はいなかったんでしょうか?皆さんの意見待ってます
(P900i/FOMA)
79 諏訪
>>78
桶狭間の戦いについて、『信長公記』を読んでの私の感想は、信長えらく無能だなぁということと、偶然に偶然が重なって今川軍が大敗した、戦争って怖いなぁということですね。

夷陵の戦いでの詳しい戦況はわかりませんが、戦争というのは万全の準備をしているつもりでも、予想外の展開になることがある、だからこそ、むやみに戦争をするものではないし、戦わずに勝つことが大事なんですね。

だからといって、夷陵の戦いはするべきではなかったと考えているわけではありませんが。
(W51S/au)
80 寿君
劉備は持久戦になる可能性に対する準備不足が考えられます。
武陵蛮を煽動している訳だから、得意のゲリラ戦で粘り強く戦う事も出来たはず。
翌年には死去しますから、焦りがあったのではないでしょうか?。
敗戦のショックでと言うよりはそんな感じもしますし、曹操にしても漢中戦あたりは、冴えが感じられないので、年齢的な判断力の衰えも感じなくはありません。
ただ、蜀軍の兵力が実際どれぐらいだったかも不明瞭なのも困ります。
4万と言うのが先鋒だけなのか?総兵力なのか?武陵蛮からの援兵がどれぐらいだったのかも不明。
それに、武陵蛮援兵の規模によっては、前線に置いて規律正しく動かせたかも気になります。


まあ、判らないから仕方ないけど(*_*)
(P905i/FOMA)
81 諏訪
>>80
劉備がゲリラ戦が得意だったかどうかはともかく、敵領への侵攻戦ですし、夷陵・夷道やその先の江陵・公安の奪取が目的であるならば、ゲリラ戦なんてやりようがなかったのでは?
魏の動向も気になりますし、長期戦にはしたくなかったのだと思いますよ。

それと、武陵蛮が呼応したといっても、劉備軍に合流したわけではなく、それぞれ各地で反乱を起こしていたのではないでしょうか。
(W51S/au)
82 寿君
あらっ?
申し訳ないです。完全な記憶違いでした。先主伝と馬良伝見たら、蜀漢に帰属してきただけみたいですね。
沙摩柯も単なる異民族の武将なだけとあるし…。

一体、どこで記憶違いしたんでしょう。

と言う事は夷陵を突破するだけの話だった(いやしなければならない)訳ですね。
呉書ばっかり見てました(汗)

申し訳ない出直してきます。(´O`)
(P905i/FOMA)